吉田健一『酒談義』

5月9日(火)曇り

 吉田健一『酒談義』(中公文庫)を読み終える。

 「没後40年記念エッセイ」と銘打たれている。吉田健一(1912-77)の酒に関するエッセイを独自に編集し、短編小説「酒の精」と、彼の親友の1人であった野々上慶一の吉田についての回想エッセイを解説代わりに収録したこの文庫オリジナル編集のエッセイ集である。

 吉田健一の訃報に接したとき、私はまだ30代の前半であった。ラジオのニュースで訃報を聞いたのが、かなり鮮明に記憶に残っている。記憶が鮮明である理由の1つは、彼が書いたものを読み始めたのが、彼の死後のことであったからではないかと思う。そして、30を超えてから、生活が安定したこともあって、酒を飲むようになり、彼が書いていることが理解できるようになったということがさらにその背景にあったと思う。

 吉田は文学者であり、また国際人でもあった。文学者であったことは、ケンブリッジ大学に入学後、指導教授から文学者として生きるならば帰国した方がいいと言われて帰国したことからもわかるように、彼自身が選んだ生き方であった。国際人の方は、彼の父親が外交官で、少年時代から外国で過ごすことが多かった生い立ちの結果というところがある。しかし、文学者として生きることを決意して後に、フランス語(とギリシア語)をアテネ・フランセに通って身につけたということからすると、国際人の方も自分で選んだ生き方といえるのかもしれない。

 そうした生き方に気負いのようなものが感じられないのも特徴的なことである。もちろん、父親の茂が首相をしていたころに、闇屋や乞食のまねごとをしたという逸話もあるが、自由と自然体を愛した彼の生き方が遊び半分に過激な方向に逸脱したということではなかったかと思う。この自由と自然体を愛するというところが、吉田の酒に対する態度にも反映していて、「ただ飲んでいても、酒はいい。あまり自然な状態に戻るので、却って勝手なことを考えはじめるのは、酒のせいではない。理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである」(「飲むこと」、19ページ)などという。中島敦の短編小説「名人伝」の不射の射の境地を思わせるが、吉田と中島は短い期間ではあったが、親交があった。

 彼が葡萄酒(ワインなどといわないところがいい。もっとも強化ワインの一種であるシェリーはシェリーと書いている)や日本酒を愛し、ビールやウィスキーを好まなかったのは趣味の問題であるが、なぜか私の趣味と一致している。もちろん、葡萄酒をめぐる知識と経験は将軍と一兵卒くらいの違いがあるが、日本酒をめぐっては菊正宗(といったって、本当に酒の中身が同じとは言えないかもしれないが)という共通項がある。

 酒の飲み方をめぐっての具体的な談義となると、私とは意見が違う部分もあって、話がややこしくなる。読んでいて、やはり面白いのは、酒を通しての交遊録で、萩原朔太郎、横光利一、井伏鱒二、河上徹太郎、大岡昇平など多士済々(吉田にとっては先輩格の人が多い)である。新橋にあった吉野家についての井伏鱒二の有名な詩の助けを借りたりしながらも、その場の雰囲気が活写されている。「萩原朔太郎が偶に腰掛けていた隅に一番よくいたのは横光利一で、横光さんがそこにそうしているのが眼に入るとその日は儲けものをしたという感じだった。横光さんは若いものに親切な人だった。決して甘やかす訳ではなかったが、これからやる仕事に期待する態度で、何か書いたものが横光さんに褒められれば自分が一人前の文士になる日もそう遠くない気がした」(「飲む場所」、143ページ)。横光の親切な一面を語っている中に、吉田自身の温かい人柄も窺われるように思われる。(萩原が教えていた明治大学の学生だった大正生まれの田村隆一が萩原についてかなり厳しい評価をしているのと、吉田の態度は対照的である。)

 いかにも英文学者らしいと思った個所を紹介しておくと、「フォースターという英国の小説家が人生は人生であるものと劇であるものでできていて、その劇の方を見てそれが人生であると思ってはならないという意味のことをその小説の一つに出てくる人物に言わせているが、それならば夜のビヤホールは劇が起こりそうでいて、それでも構わずに飲んでいるうちにそれが人生とでも呼ぶ他ない静かなものに変わって行く」(「飲む場所」、160ページ)。なんという小説なのかが記されていないのが、酔っ払いの酒場談義ふうではないか。蛇足までに付け加えると、吉田は幻想小説の名手でもあって、最後に収録されている「酒の精」にもその片鱗は表れている。最後まで楽しく読める本である。
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