『太平記』(157)

5月7日(日)薄曇り

 建武3年(1336)春、いったんは京都を去って比叡山に本拠を置いていた後醍醐天皇方は、京都を占拠していた足利方に勝利したが、宮方の総帥であった新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した〔これは『太平記』にだけ記されていることで、歴史的事実とは言えないようである〕。その間、赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が円心の立て籠もっていた白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ城の防備を固めてしまう。白旗城包囲に時間をかけすぎると、足利方の反攻を許すことになるとの献策を受けて、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく播磨と備前の境の船坂峠に向かい、この動きに呼応して備前では和田(児島)高徳が挙兵した。
 京都、さらに近畿地方を追われて、九州に落ち延びていた足利尊氏・直義兄弟は九州の大半の武士を味方につけることに成功、京都での大敗の経験から上洛をためらっていたが、赤松円心からの使いの進めもあって4月の末に大宰府を発ち、中国地方に兵を進め、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた〔『梅松論』には、尊氏が九州に落ち延びていく途中、備後の鞆の浦で院宣を受け取ったと記されている。おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと思われる]。備後の鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は水陸の敵が一か所に集まるところで一戦交えようと、摂津兵庫を目指して退却した。

 そうこうするうちに新田義貞は備前、美作の味方の軍勢が合流してくるのを待ち受けようと、賀古川(加古川、兵庫県加古川市を流れる川)の西にある丘に陣を取り、ここに2日間滞在した。
 ちょうど梅雨の季節であったので、降り続く雨のため川が増水していた。そこで、あとから敵が追いかけてくることもあろうから、総大将をはじめ、主だった武将たちは船で向こう岸へ渡るべきだと人々が口々に進めたのだが、義貞は「なんの恐れることがあろうか。渡らないうちに敵が攻めてくれば、退路が立たれてしまっているので、決死の戦いを行うのに都合がよい。むかし、漢の高祖の家臣である韓信が、川を背にして趙の軍勢と決死の戦いをしたという故事の教訓はこれである。軍勢を渡し終わってから、義貞が後から渡るのに、何の不都合があろうか」と、まず戦いで馬が弱った軍勢、負傷者などを順々に渡河させた。

 そのうちに、一晩で水量が落ち、おりよく備前や美作の軍勢が集まってきたので、馬をいかだのように並べ泳がせて川を渡り、6万余騎が、同時に川を渡ったのであった。ここまでは義貞の率いる軍勢は10万余騎を数えていたのだが、尊氏・直義兄弟が上洛の兵を起こしたと聞いて、臆病風に吹かれたのであろうか、いつの間にか兵の数は減っていた。義貞が兵庫(神戸市兵庫区の辺り)に到着した時に、従っている兵はわずかに2万騎にも満たなかった。

 尊氏と直義兄弟が、大軍を率いて上洛を目指しているので、要害の地でこれを防ぎ戦おうと兵庫まで退却したという次第を、義貞が早馬を走らせて都へと知らせたので、後醍醐天皇は大いに慌てられて、楠正成を召され、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力を合はすべし」(第3分冊、63ページ)とお申しつけになった。
 正成はかしこまって次のように申し上げた。「尊氏卿が、九州の軍勢を率いて上洛されてくるというのであれば、定めて雲霞のごとき大軍であるでしょう。味方のわずかでしかも疲れた軍勢をもって、敵の勢いづいた大軍と戦って、普通に戦ったならば、味方はきっと負けてしまうと思います。
 ああ、新田殿も京都に呼び戻されて、以前のように比叡山延暦寺に御臨幸あそばしませ。正成も(自分の本拠である)河内に馳せ下って、畿内の兵を集め、淀の大渡あたりの川の流れをせき止め、北と南の両方から(足利勢に奪われた)京都を攻め、(敵の補給路を断って)兵糧を欠乏させていけば、敵は次第にその数を減らし、味方は次第に多くなっていくのではないでしょうか。その時に、新田殿は比叡山から攻め寄せ、正成が搦め手の河内・摂津の方角から攻めていけば、朝敵を一戦で滅ぼすことが出来ようかと存じます。
 新田殿もきっとこの作戦をお考えでしょうが、(せっかく兵を進めてきたのに)遠征中に一戦もしないのはひどくふがいないと、人が噂をするのを恥じて、兵庫の辺で応戦されるのだと思われます。合戦はただ、とにもかくにも最終的な勝利こそ大事なのですから、遠い先のことまでのご思慮をよくよくお考えになり、結論をだされるべきだと思います。」
 天皇は「誠にも謂(い)はれあり」(第3分冊、62ページ)とお考えになり、公卿たちを集めて協議させたのである。

 大軍と正面から戦うのではなく、退却してゲリラ戦で相手を消耗させようという正成の戦術はローマ史に名高いクィントゥス・ファビウス・マクシムスがカルタゴの勇将ハンニバルと戦った際の戦術を思い起こさせる。正成がいうように、義貞も敵を京都に迎え入れておいて、ゲリラ戦で苦しめようという作戦を最善のものと考えていたかどうかは、この2人の武将の気質を考えると疑問である。現実主義者の正成にくらべて、武将としての意地にかけても兵庫で一戦交えようと考える義貞は、良くも悪くも伝統的な考えにこだわっているように思われる。(義貞は剛勇に加えて人間味に溢れた武将であるが、変な意地を張るところがあって、そこが欠点である。)

 なお、『梅松論』には、尊氏・直義が九州に落ち延びた時に、宮方の人々が喜ぶ中で、正成が「義貞を誅罰せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし。御使にをいては正成仕らむ」(群書類従、第20輯、197ページ)と申し上げたので、周囲の人が驚きあきれていると、諸国の武士たちが心から尊氏に従い、その命令を実行しようとしているのは無視できないと述べたと記されている。正成がその時点、その時点で最善の策を考える武将であったことが推測できる。

 『梅松論』が出たついでに言うと、この書物で尊氏に持明院統の院宣をもらって自分たちの大義名分を得ることを献策するのは赤松円心である。(『太平記』では尊氏が自分の知恵でそうしたことになっている。) 『太平記』『梅松論』の記述を通じて、円心は非常に先を読む力のある、構想力のある武将として描かれている(正成と違って、その点があまり神秘化されて描かれていないので、余計すごみがある)。護良親王を不遇時代から助け、六波羅の軍勢といち早く戦ったのは彼であり、彼を敵に回したのは後醍醐天皇にとっての不運、逆に味方につけたのは足利尊氏にとっては大きな幸運であった。それもこれも、自分にとっては耳に痛い忠言でも聞き入れる度量があるか無いかの違いが出ているのかもしれない。

 正成は宮方がいったん京都を捨てて退却し、ゲリラ戦、持久戦に持ち込んで情勢を逆転させることを進言する。「悪党」出身の武士であった正成にとっては当然の行動であろうが、ぜいたくに遊び暮らしているお公家さんたちにとってはつらい選択になる。さて、どうなるか。 
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