『太平記』(156)

5月1日(月)晴れのち曇り、一時雨

 建武3年(1336)春、足利方に追われて比叡山に落ち延びていた後醍醐方は北畠顕家率いる奥羽・関東の軍勢の来援もあり、京都を奪回する。足利尊氏・直義兄弟は少弐氏をはじめとする九州の豪族たちを頼りにして西に落ち延びていくが、新田義貞は、勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で播磨の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。白旗城の攻囲戦に手間取った義貞は、他の中国勢を早く味方につけようと播磨と備前の国境にある船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。
 九州の武士たちのほとんどを味方につけた足利尊氏は、京都での敗北の経験から上洛を躊躇していたが、赤松円心からの使者の勧めで、4月末に大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。

 新田一族の大井田氏経は2千余騎の軍勢を率いて、備中の国の福山(岡山県総社市南部にあった山城)に進出して、この城に立て籠もっていたが、足利勢が登場するという情報を得て、この城はまだ十分に防備を整えていないのに、大勢の敵を迎えて防ぎこらえることはできる相談であるとは思えないという声があったのを、対象の大井田はしばらく思案して、「勝負は時の習い、時の運によるといっても、味方は小勢、敵は大勢で勝てる可能性は戦に一つもないだろう。とはいうものの、国を超え、都から遠く離れて、足利軍が上洛してくるのを防ごうというのでやってきた者達が、敵が大勢だからといって、噂を聞いただけで逃げることなどできるものではない。我々は前世における同じ業により現世で同じ報いを受けることになっていて、それがここで皆戦死するということではなかろうか。死を軽んじ名を重んじるものをこそ立派な人間というのである。おのおの方も討ち死にして、有名を子孫に残そうという覚悟を決めてほしいと部下たちを諫めたので、宇津宮氏配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団の武士たちをはじめとして、大井田に従っていた兵のすべてがそのとおりであると承諾して、討ち死にをひたすら覚悟したので、かえって今は心中さわやかに感じられた。

 そうこうするうちに、5月15日の宵から、足利直義が20万騎で勢山(倉敷市真備町の妹山)を越え、福山の麓4,5里の間に少しの土地も余さず、びっしりと立て込んで陣を取り、大篝火をたかせた。これだけの大軍の勢いを見せつけられれば、どんな鬼神でも、今夜のうちに城を捨てて落ちのびていかないということがあろうかと思われた。ところが福山城内では篝火をたき続けており、退却せずに踏みとどまっている様子なので、夜が明けるとすぐに、まず備中、備後の軍勢が3千余騎で押し寄せ、浅原峠(福山の南、総社市と倉敷市の間の峠)から攻撃をしかけた。この時まで、城中は鳴りを静めて音もたてない。さては、もう逃げだしたかと喜んで、鬨の声を上げると、城中は依然として音を立てない。「やはり敵は逃げたのだ」と喚声を上げて、城壁のように切り立たせた崖のすぐそばに千数男うとすると争って進むところに、城中の東西の上策の門に、太鼓を鳴らし、ただ一度だけ鬨の声を上げる。寄せ手の大軍はこれを聞いて、「新田の一族が大将になって立てこもっている城であるから、籠もっている軍勢が小勢だからというので、大軍の襲来の知らせを聞いただけで恐れて逃げ出すことはまさかしないだろうと思ったが、果たして、まだ場内に踏みとどまっているぞ。敵を小勢と侮って手始めの合戦を仕損じるな。四方を取り囲んで同時にせ御代と、諸国のぐ寧が城の四方のそれぞれ一方を受け持って、谷や峰一つ一つから道を探して攻め上ってくる。

 城内の兵は、すでに覚悟を決めて待っていたことなので、敵の大軍に囲まれても、少しも騒がず、ここかしこの木陰に、盾をつきならべて防御のための覆いとして、矢種を惜しまず散々に射かけてくる。寄せ手は稲や麻、竹や葦が群生するように隙間もなく立ち並んでいたので、射損じた矢は一本もないという様子である。寄せ手の方では敵に矢種を尽くさせようと、わざと矢を射かけないでいた。ここまで城の兵は、まだ一人も負傷したものがいない。それを見た大井田氏経は、まだ勢力が残っているうちに、これから突撃を試み、足利直義の人を一散らし懸け破ろう」と、500騎ほどの歩兵を残し、元気のいい馬に乗っている兵千四騎を率い、木戸を開かせ、逆茂木を取り除いて、北の方の山の尾根が下がってっくる先端からわめきながら駆け出してきた。この方面を責めていた寄せ手は、この勢いに押されて谷底に重なって落ちていったのである。

 大将である氏経は自分たちの近くにいる敵には目もくれず、東の離れ尾(周囲の山から孤立した山の尾根)に二引両の足利氏の紋を染め抜いた旗が見えるのは、直義の陣営だと思われる。真ん中に突っ込んで、直接に勝負を決しよう」といって、馬を懸け入らせ、長時間戦った。ところが直義になかなか出会うことができず、あれもこれも直義ではなかったと、大勢の中を駆け抜けて、はるかに後ろを振り返ると、敵は既に城を攻め落としたと見えて、櫓や掻楯(かいだて、垣根のように並べた楯)が放火されて燃えている。大井田氏経は部下の兵たちを集合させて、今日の合戦は、今はこれまでである。さあ、敵の包囲の一方を打ち破って、備前に帰り、播磨、三石の軍勢とお合流しよう」といい、板倉の橋(岡山市高松の辺りを流れていた川にかかる橋)を渡り、東の方へと落ちのびようとした。足利方はそうはさせじと2千騎、3千騎で、ここかしこの道をふさぎ、討ち果たそうとする。大井田配下の残っていた400余騎の兵たちは、これはもう逃れられないと覚悟を決めていたので、近づく敵に中に割って入り、十文字にかけ散らして、板倉川の橋から唐河の宿(岡山市北区辛川)まで、16度までも戦闘を繰り返した。ところが、思っていたほど宮方の武士で戦死するものは少なく、大将の氏経も無事で、虎口の死を逃れ、5月18日の早朝に、三石の宿に到着した。

 足利直義は、新田軍の先鋒である大井田が立て籠もっていた福山の城を攻略し、大井田を敗走させたので、事始吉しと大いに喜んだ。その日は1日、唐河の宿に逗留し、首実験を行ったが、生け捕り、討ち死にの首、1353人と記録された。(福山に立て籠もっていたのは2千余騎であり、400騎足らずが激戦を生き延びたということだから、数百人が行方不明になっている。) 直義は備中の一の宮である吉備津神社に参詣しようとしたが、戦の最中でもあり、死の穢れに触れることを憚って、祈願の文書だけを納めたのであった。そして次の日、唐河の宿を発ったが、兄である尊氏も船を進めて、順風に恵まれて東へと進んだのである。

 5月18日の夜になって、三石城を包囲していた脇屋義助が、兄である新田義貞に使いを送り、福山の合戦の次第を詳しく手紙で知らせた。義貞は「合戦の様子は立派であった。白旗、三石、菩提寺の城、どれもまだ攻め落とせないでいたところに、尊氏と直義が大軍を率いて船路と陸路から心を合わせて攻め上ってくるということである。水陸の敵に攻められることは疑いない。ここはすぐに中国地方での合戦を放棄して、摂津国辺に退却し、水陸の敵を一か所で待ち受け、京都を背後にして合戦すべきである。そちらからも急いで山里(やまのさと。兵庫県赤穂郡上郡町山野里)あたりに向かい、そこで合流しよう。美作に派遣した軍勢にもこの旨を伝達するつもりである」との返書を送った。

 こうして、5月18日夜半に、宮方の兵士は、皆三石の包囲を解いて、船坂峠を退却していった。三石城中の軍勢は、この機会を利用して、船坂峠に進出し、道をふさいで散々に射かける。
 月曇り、暗い山道で、前後もはっきりと見えないために、父親が倒れても子は気づかず、逆に子が倒れても父は振り向かないといった様子で、とにかく一足でも前に進もうとしていたのだが、九州の宮方の一族菊池の家来で原源五、源六という名高い剛勇の武士がいて、隊列の後ろにわざと残って、味方を落ち延びさせようと防ぎ矢を射かけた。しかし矢がなくなってしまったので、太刀の鞘を外して、菊池殿の家来の中で原源五、源六という剛勇のものが討ち死にするぞ。仲間がいるなら引き返せと大声で呼びかけた。彼らの仲間である菊池の若党がこれを聞いて、はるか先に落ち延びていたのだが、「俺はここにいるぞ」、「わしもここにいるぞ」と名乗って、戻ってきては戦い、戻ってきては戦ったので、三石城からやってきた足利方の武士たちも、さすがに近づくことはできずに、ただ他の峰に立ち並んで、鬨の声をつくるだけであった。その間に宮方の兵は、一人も戦死することなく、明け方には、山の里に到着したという話である。

 東上してきた足利軍が、新田軍の先鋒が立て籠もる備中福山城を陥落させ、新田軍は備中はもとより備前、美作、さらに播磨からも兵を撤退させた。新田義貞の作戦は摂津で足利軍の水陸からの攻撃に対処しようとするものである。(現在の神戸市の辺りは、山が海に迫っているので、大軍を迎え撃つのには適しているということであろう。)このような判断のもとになっているのは両軍の兵力の違いである。中先代の乱以後の尊氏と義貞の戦いをずっと見てきても、尊氏の方が兵力において勝っており、それを宮方が知略や武勇で打ち負かすという事例が多かった。義貞は宮方の長所を知りながらも、それがいつまでも効果をもち続けるとは思われないと慎重になっているのかもしれない。
 今回描かれたところでは、全体として足利方が優勢な展開であるが、『太平記』の作者が宮方の武士たちの知略や武勇を好んで語っているというのが、以上に述べたこととどのように関連するのか、興味深いところである。
 
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