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『太平記』(155)

4月23日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、大将の新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機会を逃した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明らが赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているままに、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく船坂峠に向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。宮方の軍は船坂峠の足利方を破り、江田行義は美作に侵入、脇屋義助は三石城を包囲、大井田氏経は備中に進出して福山城(岡山県総社市)に陣を構えた。

 そうこうするうちに九州に落ち延びていた足利尊氏は、多々良浜の合戦で奇蹟的な勝利を収めたのち、九州の武士たちが一人残らず味方に付き従うようになって大変な勢いである。〔もちろん、菊池氏のように宮方の武士はいるのだが、物語としての修辞上の綾でこのように書いているのである。〕その一方で、中国地方では宮方の勢力が強く、上洛の道を阻んでおり、東国の武士たちは宮方に心を寄せるものが多くて、尊氏の味方は少なかったので、安易に上洛を図るのは上策ではないと、正月の京合戦の経験から怖気随ていたので、将兵たちはあえて上洛しようという元気はなかった。

 そこへ、赤松円心の三男の則祐律師と、赤松一族の得平秀光が播州から筑紫に急ぎやってきて、「京都からやってきた敵軍が、備前、備中、美作に充満しておりますが、そのすべてが城を攻めあぐねて、気力を失い兵糧も尽きて着た頃ですので、大勢で上洛なされば、ひとたまりもなく自分たちを支えることはできないと思われます。もし京都に向けての出発が遅れ、その間に白旗城が攻め落とされてしまいますと、そのほかの城も宮方の攻勢をこらえることはできないでしょう。中国地方の4か所の要害(名義能山2か所と菩提寺と三石城の合計4か所)が敵の城になってしまいますと、味方が何十万の軍勢であっても、上洛されることは不可能になると思います。むかし趙の都邯鄲が秦の始皇帝の大軍に囲まれ、落城寸前のところを、魯仲連の策と楚や魏の救援で切り抜けたという例、また楚の項羽が秦の将軍章邯と戦った折に、黄河を渡河してから船を沈め、釜や甑(=蒸し器)を焼いて、兵士に退路がないことを示して決死の戦闘を促した故事に類する、決死の戦いをなすべき場面ではないでしょうか。天下をとるかどうかは、ただこの一戦にかかると思われます」と言葉を尽くして言上すると、尊氏もその通りに違いないと思い、4月26日に大宰府を進発、28日に追い風を得て船を進め、5月1日に安芸の厳島神社に船を寄せて、3日の間参篭したのであった。〔則祐と秀光の言葉の前半は、彼らの事実認識を述べていて、おそらくはこれに類することを発言したのであろうが、中国の故事については『太平記』の作者が自分の学のあるところを見せようと、勝手に付け加えたのではないかと思う。とは言うものの、あまり適切な例だとは思えない。〕

 その結願の日に、京都の醍醐寺の三宝院の賢俊僧正が京都から駆けつけて、持明院殿(『太平記』の作者は後伏見院としているが、史実としては光厳院)の院宣を尊氏に下した。この賢俊僧正というのは日野家の出身で、第15巻で尊氏が京都から落ち延びていく際に側にいた薬師丸(→道友)に日野中納言(日野資明)を通じて、院宣を得るように取り計らえと申しつけたその資明の弟である。尊氏は、院宣を拝見して、箱と蓋とがぴったり合うように念願がたちどころに的中したと喜んだのであった。後伏見院(法皇)は3月6日に崩御されていたのであるが、それ以前に下された院宣である。〔既に書いたように、実際には後伏見院の子である光厳院が下されたものである。この時代、天皇の在位期間は短く、その結果として複数の上皇がいらっしゃるのがふつうで、その中で政務をとられる上皇を治天の君と呼んでいた。後醍醐天皇のように天皇として在位したまま、政務をとられるというのはかなり例外的なやり方であった。〕

 尊氏は、厳島神社への奉幣を終えて、5月4日、厳島を出発、九州の軍勢に加えて、射よ、讃岐、安芸、周防、長門の武士たちが、500余艘の船を並べて軍勢に加わった。さらに7日に、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に到着すると、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が、6,000余騎ではせ参じた。そのほか、諸国の武士たちが、招いていないのに集まって来るし、攻撃しなくても帰順するということで、止めるものがないような勢いでの進撃である。

 新田義貞は、備前、備中、播磨、美作に軍勢を分けて、それぞれの国の城を攻撃しているという情報が伝わってきていたので、尊氏は鞆の浦で陸路と水路に軍勢を分けた。陸路を進むのは足利直義を大将とする20万6千余騎の軍勢であり、尊氏は、足利一族の吉良、石塔、仁木、細川、荒川、斯波、吉見、渋川、桃井、畠山、山名、一色、加子(かこ)、岩松らをはじめとして40余人、足利氏の譜代の家臣である高の一党が50余人、尊氏・直義の外戚である上杉の一類が39人、外様の土岐、佐々木、赤松、千葉、宇都宮、小田、佐竹、小山、結城の一党、さらに三浦、河越、大友、厚東、菊池、大内ら160人、これらの棟梁の率いる軍勢が7560余艘の船に乗り込み、中でも将軍の御座船をはじめとする30艘は巨大な船であった。それらが思い思いに纜を解き、小さな船をつなぎとめて、帆を挙げ、船のヘリがこすれあうほどぎっしりと並んで、東へと向かったのである。〔足利一族として列挙されているうち、吉見は以前にも書いたが、頼朝の弟範頼の子孫、山名は足利一族ではなくて新田一族である。一方で、土岐と佐竹は足利氏と同じ清和源氏であるが、外様とされている。〕

 15日に、備後の鞆を出発したのであるが、その際に不思議なことがあった。尊氏は、館の中でしばしまどろんでいたのだが、その夢に南方から光きらめいた観音菩薩が飛来されて、船の先端にお立ちになっただけでなく、観音菩薩に従い行者を守護する28全身が、それぞれ武装した姿で菩薩をお守りしている様子である。尊氏は夢が覚めたのちに、これは菩薩の加護を得て、戦に勝つという瑞祥の夢であると思い、杉原紙を短冊の形に切って、自筆で大悲観世音菩薩と書き、船の帆柱ごとにそれを押しつけた。このように順風を得て、海路を行く尊氏の軍勢は備前の吹上(岡山県倉敷市下津井吹上)に、また陸路を行く直義の軍勢は備中の草壁庄(小田郡矢掛町)に到着した。

 九州で勢力を回復した尊氏・直義兄弟の反撃が始まろうとしている。ここで重要なのは尊氏が自らの軍事行動を正当化するために持明院統の上皇から院宣を得ていること、その仲介者が賢俊僧正であったことである。最近出版された森茂暁『足利尊氏』によると院宣を得たのは2月15日ごろのことだというから、『太平記』は必ずしも歴史的事実をそのまま書いているわけではない。また、院宣によって自らの行動の正当性を主張するというのは、『太平記』では尊氏自身の思い付きとなっているが、『梅松論』では赤松円心の入れ知恵とされているそうである。『太平記』は歴史そのままを書いているわけではないが、赤松円心・則祐や賢俊僧正を要所で登場させることで、これらの人々が果たした役割を物語っているということは言えそうである。
 尊氏・直義兄弟の東上に中国地方を攻略中の新田義貞とその軍勢はどのように対処しようとするか、というのはまた次回。
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