北村季吟と松尾芭蕉

4月20日(木)晴れ、気温上昇

 『太平記』を批評した2つの俳句がある。
 平家なり 太平記には 月も見ず 其角
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 支考

 前者は『平家物語』には月見のような王朝の優雅な生活の姿が描かれているが、『太平記』は殺伐としている。『平家』の方がいいというもので、後者は花の名所として知られる吉野山ではあるが、歌集を読むよりも、『太平記』に描かれた吉野朝の苦難の姿の方が悲しく思われるというものである。『太平記』を殺伐とした戦闘の記録の連続として読むか、吉野朝の苦難と朝廷に忠義を尽くした武士たちの悲愴な姿を描いた文学として読むかは読み手の自由である。そのどちらを選ぶ、あるいは別の読み方を選ぶというのも自由である。

 興味深いのは、この2つの対照的な句の作者がともに芭蕉の有力な弟子だったということである。芭蕉の作品を読んでいると、彼が国文学の古典についてなみなみならない素養をもっていたということに気付かされる。それもそのはず、彼は俳諧を北村季吟(1624-1705)に学んだのであるが、季吟は『源氏物語湖月抄』などの著書を表した古典研究者でもあった。このことをめぐっては、『広辞苑』の編纂者であり、季吟の顕彰に努めた新村出が
 芭蕉には和学の恩師たりしこと先づ憶(おも)ひつつ大人(うし)を敬まふ
と歌っているそうである。

 季吟と芭蕉の師弟関係は、芭蕉が蕉風と呼ばれる俳諧の流派を形成したのちも続いていた。少なくとも季吟の方ではそう思っていたようである。元禄7年(1694)、芭蕉が没した時に、まだ健在であった季吟は芭蕉が葬られた義仲寺に
 氷(こお)るらむ足も濡らさで渡る川
と詠んで送った。季吟の長男である湖春も、追悼句を詠んだ
 また誰(た)そやああこの道の木の葉掻き
 湖春の友人で、柳沢吉保の家臣であった柏木素龍が、この句に
 一羽さびしき霜の朝鳥
と付けた。芭蕉の霊は、旧師からのこの追悼の句と、親友であった湖春の句をどのように受け止めただろうか。なお、素人の勝手な感想であるが、素龍の付け句が一番よくできているような気がする。

 徳川綱吉の寵臣であった柳沢吉保の名が出てきたが、季吟は元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召し抱えられ、将軍綱吉に『古今和歌集』の切紙を献上したりしている。また自らが受けていた古今伝授を柳沢吉保に授けたりしている。漂泊の旅に生きた芭蕉とは対照的に、権力に親近する生き方をしたのである。このことをめぐって島内景二『北村季吟』に興味深い考察が展開されている(これまで書いてきたことも、大部分、島内さんの著書に書いてあったことである)。

 季吟は宗祇や細川幽斎らが抱いていた「正しい世の中をこの世に実現させる」という「政道のための文学」の伝統を継承していた。「応仁の乱で荒廃した日本文化を、もう一度正しい秩序に回復させ、為政者と被治者が君臣相和する社会を構築するためには、それらが理想的に行われていた王朝盛時の和歌や物語を学ぶ必要がある。そして、その研究成果は、現在の政治に役立てられねば何の意味もない。」(島内、103ページ) だからこそ、彼は柳沢吉保に古今伝授を行ったのである。平和と繁栄は、平和と繁栄の時代の文化を学ぶことによって、より具体的には一条天皇と藤原道長の時代の和歌と物語とを学ぶことによって実現できると考えたのである。

 芭蕉は権力とは無関係に生きようとした。このことを含め、「季吟から芭蕉への流れは、受け継がれた側面と、変容した側面との両方がある。季吟は、集大成の人であり、芭蕉は変革の人だった。ただし、「不易流行」をモットーとする芭蕉にとっての「不易」は、季吟から受け継いだわが国の古典的伝統と深くかかわっている。」(島内、104ページ)
 其角と支考という芭蕉の2人の弟子が、『太平記』をめぐって違った意見を抱いたのは、たぶん、芭蕉が弟子たちに古典文学を学ぶことを奨励はしたものの、あまり自分の意見を押しつけようとはしなかったからであろう。その点にも季吟と対比しての芭蕉の新しさが現われているように思うのだが、どうだろうか。  
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