『太平記』(154)

4月16日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、初戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。義貞は中国勢を味方につけるべく船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。船坂峠、三石城にいた足利方は、その兵を割いて熊山に向かわせるが、撃退される。

 児島高徳らと打ち合わせて攻撃をかける日になったので、義貞の弟である脇屋義助を大将として、船坂峠の東の麓にある梨原(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)まで進み、2万余騎を3手に分けた。一方の軍勢は、江田行義を大将として3,000余騎が杉坂へ向かう。杉坂というのは兵庫県佐用郡佐用町から岡山県美作市へ至る杉坂峠のことで、山陰道の要所である。この地方の菅原氏の一族の武士たちが守っているのを追い散らして、美作の国へと進むためである。もう一手は、新田一族の大井田氏経を大将として、菊池、宇都宮の武威たち5,000余騎を、船坂へと差し向けた。これは敵を遮りとどめて、この後で言及する搦め手の軍勢をひそかに敵の背後へと回すためである。最後に残った一帯は、この土地の地理に詳しい伊東大和守を案内者として、頓宮六郎、畑六郎左衛門尉、播磨国司の代官である少納言房範猷、新田の家来である由良新左衛門尉、小寺六郎、三津山城権守以下、わざと小勢を選りすぐって、300余騎を差し向けた。この部隊は馬の轡の手綱を結びつける部分である七寸に紙を通して馬の舌を抑え、嘶かないようにしていた。この兵たちが進んだのは三石の南の鹿が通る道である。〔できるだけ隠密裏に敵の背後をつこうという計略である。〕 足利方はこの道のことを知らなかったのであろうか、堀を掘ったり、逆茂木をおいたりして、敵の侵入を防ぐ手立てを講じていなかった。道の左右の木が生い茂って枝が邪魔であったが、そういうところでは馬を降りて徒歩で進んだりして、約6時間をかけて三石の宿の西へ出て姿を現した。〔三石の宿は船坂峠の西にある。前後の関係からすると、東の方に出る方が合理的なのだが、あるいは宿のさらに西側に城があったということであろうか。] 三石城にいたものも、はるか船坂峠から見下ろしていたものも、思いがけないところから軍勢が現われたので、熊山を攻撃していた軍勢が帰ってきたのだと思って、特に驚きはしなかった。

 300余騎の兵は、三石の宿の東の方の小社の前で小休止して、新田の中黒の旗を掲げ、東西の宿に火をかけ、鬨の声を上げた。三石城では、城内の軍勢の大半を船坂に差し向け、残っていた兵のかなりの部分が熊山に派遣されていたので、残っていた兵は少なく、戦意が低いうえに、防ぐ手立ても思いつかない。〔宮方の搦め手の兵300余騎は、三石城ではなく、船坂の攻撃に向かう。] 船坂を守っていた兵たちは、前後を敵に囲まれて、何もできない様子であり、馬、物の具を捨てて、城に続いている山の上に逃げ登ろうと騒いでいる。これを見て大手、搦め手の兵が厳しく攻撃を続けたので、逃げ場がなくなった足利方の兵たちは、あちこちに行き詰まって、自害をするものが100余人、生け捕りにされるものが50余人という有様であった。

 備前国一の宮である吉備津彦神社の神主で、国司の庁に在勤する役人でもあった大藤内美濃権守佐重というものがいて、彼もまた逃げ場を失って、切腹しようとしたのであるが、ふと思いついたことがあって、脱ぎ捨てた鎧をまた身につけて、乗り捨てていた馬に飛び乗って、向かってくる敵のなかを押し分け押し分け、播磨の国の方へと向かっていった。船坂峠を越えてやってくる大勢の兵たちは、お前は何者かと尋ねてきたので、自分は搦め手の案内者をつとめたものであるが、合戦の様子を新田殿に詳しく申し伝えるために、早馬で急いでいるのですと答えた。それで行合う数千騎の兵たちは、どうぞどうぞと道を譲って彼を通したのである。佐重は、総大将の侍所(軍奉行)であった長浜の前に跪いて、備前の国の住人、大藤内佐重が三石の城から降伏しにやってきましたと言ったので、総大将は神妙なりとこれを褒めて、軍勢の来着を記す名簿である着到に記載させた。佐重は、たくさんの敵を出し抜いて、その日限りだと思われた命を助けることができたのである。これもしばしの間の智謀だと、後になってほめそやされたのであった。

 このようにして要衝である船坂が破れたので、江田行義は3,000余騎を率いて美作国へと入り、奈義能山にある2か所の城、菩提寺城、合わせて3か所の城を包囲し、脇屋義助は5,000余騎で三石の城を攻撃、大井田氏経は2,000余騎を率いて備中の国に入り、福山の城(岡山県総社市南部にあった山城)に陣を構えた。

 宮方は、中国地方にいる味方の武士の援助を得て、要衝である船坂峠を突破して美作、備中まで進出した。もともと動員できる武士の数では劣勢なので、できるだけ味方を増やしたいのであろうが、戦線を延長していくのは必ずしも好ましいことではない。播磨では赤松円心が白旗城に立て籠もっていることも忘れてはならない。『太平記』の作者は大藤内佐重の「暫時の智謀」を記録しているが、同じようなことをして、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている武士はほかにも少なからずいたのではないかと思われる。次回は九州で勢力を養った足利尊氏・直義兄弟がいよいよ中国地方に反撃の手を伸ばす様子を取り上げることになる。
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