迷亭の伯父さん

4月14日(金)晴れ、温暖

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の3で、猫が住みついている苦沙弥先生のところに、親友の迷亭がやってきて世間話をしていると、女性の客がある。近くに住む成金の金田の妻、鼻子で苦沙弥の元教え子で、大学院で学んでいる今も旧師のところにしょっちゅう顔を出している水島寒月と、自分の娘の間の縁談を進めたいので、寒月の性向を知りたいというのである。何にでも口を出す迷亭が、自分の伯父の牧山男爵と金田は友達だなどといって話をまぜっかえす。

 鼻子が帰った後、苦沙弥が迷亭に男爵の伯父がいるとは知らなかったというと、「その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその19世紀から連綿と今日まで生き延びて居るんだがね」と、その人となりを話しはじめる。静岡に住んでいる、頭にちょん髷をのせている、年をとったので早起きになったのを修業の結果だと勘違いして喜んでいる、いつも鉄扇を持ち歩いている、体の寸法を測らないままに山高帽とフロックコートを買って送れと迷亭に命令したなどとその逸話を語り、男爵というのは嘘で、若いころ湯島聖堂で朱子学を勉強した漢学者であるという。

 9で苦沙弥が自分のところに届いた手紙、とくに天道公平なる人物から届いた手紙を読んで考え込んでいると、迷亭が以前に噂をした伯父さんを連れてやってくる。赤十字の会合があったので上京したというのである。例によって鉄扇を持ち歩いているが、これは「甲割」といって鉄扇とは違うと言い張る。この鉄扇のおかげで、寒月の研究室にある磁力の機械が狂って大騒ぎになったと迷亭がいうと、「これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞はない」などという。それからひとくさり収容論をぶって、古い友達のところを訪ねると出て行ってしまう。

 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』は明治以後の近代化の過程の中で欧米の学芸が優勢になる中、伝統的な漢学者たちがいかに自分の学問と取り組み、世の中を渡っていったかを8人の漢学者の人生をたどりながら描き出した書物であるが、その中に紹介されている根本通明(1822-1906)に、迷亭の伯父さんと重なる逸話があるという。
 根本は秋田の人で、帝国大学(今の東京大学)の教授であったが、常に和服を着用、鉄扇を持ち歩いた。そのため磁器を測定する機械を狂わせたことがあったという。さらに体の寸法を測らせずに洋服を作らせたという逸話もあるという。
 渡部昇一の孫引きであるが、漱石が敬愛した外国人教師ケーベルの随筆の中に、帝大の教師には尊敬に値する人物は少ないが、3人だけいる浜尾新と、根本、それにもう一人名前のわからない人物である(渡部の推測では物集高見)であると述べられているようである。ただ、ケーベルは根本が鉄扇を持ち歩いている理由がどうもわからなかったという。これは別にわからなくてもいいのである。

 ところが、漱石の友人の1人であった狩野亨吉(1865-1942)も秋田の人で、子どものころ根本の塾に通ったことがあり、1897年にある席で根本にあって丁寧に挨拶をしたところ、彼を見下すような発言をしただけでなく、だれかれとなく周りの人物に狩野の悪口を言いふらした――「自分が子どものころからこの人間が嫌いで塾へは行かずほとんどその時間を途中で友達と遊んですごした。それ以後二十何年も往来しなかったが、今見てもやはり実に固陋卑劣な男だ。しかも彼は実際はまことに小心者で、それを隠すためにこのように、恫喝的態度で武装している」(青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』、中公文庫、216ページ)と怒り心頭に発したという。
 自身も秋田市の出身であった青江は、「根本通明のこのハッタリは、平田篤胤・佐藤信淵などに共通する性癖で、秋田市(旧久保田)及びその南方の地域に著しく、狩野父子・内藤湖南などの北方的柔和と鋭い対応をなしている。いったいどのような風土のちがいであろうか。」(同上)と記している。青江の意見をすべて信じてよいかどうかはさておくにしても、このように根本について否定的な評価をする意見もあることは注目しておいてよい。

 狩野亨吉の父親である良知は、漱石をはじめとする自分の息子の友達の若い世代と談話を楽しむ人物であり、『猫』の迷亭の伯父さんや、『虞美人草』の宗近の父親にその姿が描かれているともいわれる。迷亭の伯父さんのモデルが根本通明であるか、狩野良知であるかという問題は、それだけで終わるものではなく、日本の近代化と伝統的な学問の問題をはじめとするかなり複雑な問題と絡み合っているように思われる。
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