『太平記』(153)

4月9日(日)雨が降ったりやんだり

 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、九州へと敗走していく足利方を追走する機を逸した。その間、中国地方で足利方の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているうちに、足利方が迫ってくることを警戒して、義貞は中国勢を味方につけようと船坂峠へと向かった。しかし船坂峠も要害の地であり、なかなか攻略の手掛かりが得られないまま日々を過ごしていた。

 備前の国の住人の和田(児島)高徳は前年、四国から細川定禅が攻め上ってきたときに備前、備中の戦いで敗れて、山林に身を隠し、いつかは敗戦の屈辱を晴らそうと、義貞軍の到着を待っていたが、船坂山を義貞軍がなかなか突破できないという情報を得て、ひそかに使いを義貞のもとに送り、次のように伝えた。
 船坂を突破しようとされていることを伝え聞きました。もし本当であれば、そう簡単に突破できるようなところではありません。(したがって陽動作戦を立てるべきだというのである。) 高徳が、来る8日に備前の熊山(岡山県赤磐市南東部にある山)に出て、そこで挙兵しようと思います。そうすると、船坂に立て籠もっている賊軍は、きっと熊山へと攻め寄せて来るでしょう。それで船坂山の防御が手薄になったところをついて、軍勢を二手に分け、一手を船坂に差し向けて、攻撃する様子を見せ、もう一方を三石山(備前市)の南を目指し、木こりが使う道があるので、それをひそかに回って、三石の宿から西に出れば、船坂の敵は、前後に敵を受けることになり、慌てふためくでしょう。高徳が国内で宮方の旗を掲げ、まず船坂を攻略すれば、西国の軍勢は、争って味方に参集するでしょう。合図を決めて、攻撃をかけてください。
 これまで播磨の武士たちしか新田軍に集まってこなかったのに、備前の高徳がやってきて以上のように述べたので、義貞は大いに喜んで、早速、どのように合図するかを決めて、急いで使いを高徳のもとに返した。

 使者が備前に帰って、合図について報告したので、4月17日の夜半に高徳は、自分の館に火をつけて、わずか25騎の武士たちを率い、旗を掲げて出陣した。備前以外の国にいる一族の武士たちには、事態が急だったので連絡をせず、近くに住んでいる親類たちにだけ事情を話したので、小嶋(和田)一族の今木、大富、射越(いのこし)、原、松崎といった武士たちが集まってきて、合わせて300余騎となった。

 あらかじめ、夜半に熊山に取りついて、井法に篝火をたいて、大勢が籠もっている様子を敵に見せようという謀をめぐらしていたのだが、馬よ、物の具よと、慌てて騒いでいるうちに、夏のことなので夜が間もなくあけてしまった。このように急なことなのでぐ寧の準備は手薄だったが、仕方なく、合図の時間を間違えまいと熊山へ上った。経略通り、三石、船坂の軍勢は、これを聞いて、国中に敵が出てくることになると、大変なことになる。何もかも差し置いて、熊山を攻めよと、船坂、三石に立て籠もって田中から3,000余騎を分けて、熊山へと向かわせた。

 この熊山というのは、高さは比叡山のようで(岩波文庫版の脚注には、比叡山は約840メートル、熊山は、約500メートルとある)、四方に7つの道があった。その道のどれもが麓の方では険しい岩道で、峰は平らである。高徳はわずかの軍勢を7つの道に差し向けて四方から押し寄せてくる敵を防ぐ。敵を追い下したかと思うと、また別の敵が攻め上ってくる。そこで追い下す。また昇ってくると終日戦いが続いた。夜になると、寄せ手の中に石戸(おいこ)彦三郎というこの山のことをよく言っている武士がいて、思いもよらない方角から山頂にたどり着き、この山の山頂にある天台宗霊仙寺の本堂の後ろの小山の上から、鬨の声を上げた。

 和田は、四方の麓へ軍勢を分遣していて、山頂付近に残っていたわずか14・5騎とともに本堂の庭に控えていたのだが、石戸の率いる200余騎の中へ懸け入り、叫びながら火を散らして戦った。多くの木々が茂る山上は月の光も届かぬ暗さで、高徳は敵の太刀を受け損ねて、内兜をつかれ、馬から逆さまに落ちてしまった。敵2騎がこれを見つけて首をとろうとすると、高徳の甥の松崎彦四郎範家と和田四郎範氏が駆け付けて2人の敵を追い払い、和田を馬に載せて、本堂の縁側に下した。

 高徳は内兜の傷が痛手であった上に、馬から落ちた時に、胸板を馬に強く踏まれて目がくらみ肝をつぶしたので、しばらく気絶していたのを、父である備後守範長がその枕元によって、「昔、鎌倉権五郎景正は、左の目に矢を受けながら、3日3番もその矢を抜かず、敵に矢を射返したという。この程度の軽症で死ぬわけがない。ここでのびているようなふがいない心持でどうして、この大事を成し遂げることが出来ようか」と荒々しく叱責したので、高徳は息を吹き返し、俺を馬に乗せろ、一合戦して敵を追い払うのだと言った。父親は喜んで、もう大丈夫だ、死ぬことはない。さあ、おのおの方、ここにいる敵を追い払おうと、今木太郎範秀、その弟の小次郎範仲、中西四郎範顕、和田四郎範氏、松崎彦四郎範家、主従合わせて17騎で、石戸の率いる200余騎の中にかけ言ったが、石戸は相手が小勢とは気づかなかったのであろうか、一勝負をもしないで、熊山の南斜面の長い坂を福岡(瀬戸内市長船町福岡)まで退却していった。そしてこのまま両陣がにらみ合いを続けたが、戦闘には至らなかった。

 本格的な戦闘の前の小競り合いが続いているところである。すでに何度か書いてきたように、この時代の武士たちの多くは戦局の展開によって、強い方につくとか、ちょっと劣勢になると逃げるというのが普通に行われていた。その中で、一貫して宮方の和田(児島)高徳が久しぶりに登場するが、この人、頭はいいけれども、武勇の方はいまいちというところがある。それでも、これまでのところ、作戦は成功し、熊山の砦も無事に持ちこたえた。新田隊の船坂、三石での戦いの帰趨は次回に語ることになる。
 鎌倉権五郎景正は後三年の役の際に、八幡太郎義家に従って戦い、目を射られても奮戦を続けてその武勇を語り継がれた。朋輩の武士が彼の矢を抜こうと、顔に足を懸けたので、その非礼を罵ったという説話もある。桓武平氏の鎌倉氏(梶原、大庭)の祖である。また観音像で知られる鎌倉の長谷寺の近くにある鎌倉御霊神社は鎌倉権五郎景正を祀った神社である。
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