呉座勇一『応仁の乱』(17)

4月6日(木)曇りのち晴れ、風が強いが温暖

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の同時代人であった奈良・興福寺の2人の高僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という日記を基本的な史料としてその全容を、背景や影響も視野に入れて概観したものである。もちろん、その他の史料も駆使して、客観的な事実の掘り起こしが試みられている。

 終章「応仁の乱が残したもの」では、この戦乱が構成に及ぼした影響について論じている。その第一は、室町幕府の政治体制の根幹をなす<守護在京性の解体>であったという。
 応仁の乱の本質は2つの大名連合(東軍=細川勝元らと西軍=山名宗全ら)の激突であったが、このような形で大乱が勃発したのは、室町幕府の政治体制そのものに原因があるという。南北朝の内乱が落ち着いてくると、幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じ、原則的に在京を義務付けた。そのことで彼らの鴉越を監視・統制しようとしたのである。その一方で、複数国の守護を兼ねる有力武将には「大名(たいめい)」として幕府の意思決定に参加することを認めた。
 京都で生活する大名たちは連歌や花見などで交流をもっただけでなく、家臣たちを含めて一族郎党同士の交流が強くなった。「京都で活動する大名家臣たちは、同族関係を通じて幕府や他の大名家とつながっており、将軍と諸大名の合意形成に基づく幕政運営を下支えしていたのである。」(254-255ページ)

 ところがこのような横の結びつきは、将軍に求心力がないと、派閥形成につながる。嘉吉の変で将軍足利義教が暗殺されると、諸大名の結集の核が失われ・細川・畠山両管領家による主導権争いが始まった。畠山家を抑え込むために細川勝元は山名宗全と提携したが、畠山氏が内紛で弱体化すると、同盟の意義は薄れ、新興勢力山名氏が覇権勢力細川氏に挑戦するという形で応仁の乱がおきた。乱が起きる以前にも対立は萌していたが、妥協によって決定的な破局は避けていた。その事態を決定的に悪化させたのは畠山義就と政長の対立から起きた御霊合戦に山名宗全が介入したことである。勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標が急増し、参戦大名が抱えるすべての問題を解決することは困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。戦闘が長期化し、戦線が拡大する中で、東軍に補給路を遮断された西軍は戦争の継続を断念することになった。
 この大乱の後、ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになった。これは大名による分国支配を保証するものが幕府による守護職補任ではなく、大名の実力そのものになったからである。斯波氏が領国である越前を失い、尾張だけを領有するようになったように、戦争の中で守護代クラスの武士たちが力をつけ、大名たちの地位を脅かしていた。大名たちが引き上げたために、将軍の権力基盤は近臣や奉公衆などの直臣層のみになった。
 乱が終わった後も、将軍は一定の権威・権力を保持したが、その統治する範囲は京都周辺に限定されることになった。「俗にいう「守護大名」が将軍の権威を背景に分国支配を進めたのに対し、戦国大名は自身の力量によって「国」を統治した。したがって、将軍は戦国大名の内政には干渉できないのである。」(260ページ) 「既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである。」(261ページ)

 応仁の乱の影響の第2として呉座さんは<京都文化の地方伝播>を挙げる。ふつう、室町・戦国時代の文化の地方普及は戦乱を避けた公家たちの疎開によるものと理解されているが、在京していた大名たちが文化活動に参加していたことも見落とすべきではないという。彼らの主な貢献は文化の創造というよりも、保護・資金提供であったとはいえ、乱後、分国に帰った大名たちは京都での生活を再現しようとし、文化人たちを保護した。各地に京都をモデルにした地方都市がつくられるようになったのである。その一方で、京都は守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。「戦国期の京都は、武家・公家を中心とする上京、町衆を中心とする下京、および周辺の寺社門前町という複数のブロックから成る複合都市として機能した。・・・地方における「小京都」の林立と京都の荒廃は、表裏一体の事態として進行したのである。」(265ページ)
 中村真一郎『古寺発掘』(中公文庫)の中に、「永光寺 能登に残る畠山文化の跡」という章があり、『応仁の乱』の50ページに名前が出てくる畠山満慶に始まる能登畠山氏を中心に花開いた地方文化の様相が描かれている。中村が歌と絵に才能を残したと書いている畠山義統は『応仁の乱』94ページに西軍の武将の1人として名を挙げられている。たまたま私の目に留まった例を挙げてみたが、このように都の文化を自分の分国に持ち帰って発展させた大名は少なくなかったはずである。

 第3にあげられるのが、領主と郷村との関係の変化である。室町時代の守護たちは、領地の支配を守護代以下の家臣に任せ、その収益を京都で受け取るだけであった。応仁の乱が長期化・大規模化すると、両軍とも郷村の武力の取り込みに躍起になった。領主と農民の間で武力の動員と年貢の支払いをめぐる駆け引きが展開された。「郷村に宛てて文書を大量発給した後北条氏に典型的にみられるように、郷村・百姓と直接向き合った点に、前代の権力と異なる戦国大名の最大の特徴がある。そして、そのような社会動向の出発点が、応仁の乱だったのである。」(270ページ)

 最後に、応仁の乱、さらに明応の政変以後の大和と興福寺をめぐる情勢がまとめられている。政変の首謀者である細川政元と将軍義澄、政変によって将軍の地位を追われ復権を目指す義稙と彼を支持して勢力を拡大してきた畠山尚順(政長の子)、河内に勢力をもつ畠山義豊(基家、義就の子)らがそれぞれの勢力を拡大すべく大和に派兵し、大和の衆徒・国民はこれに危機感を募らせ、永正元年(1504)には大和を二分して争ってきた筒井と越智の盟約が締結され、さらに紆余曲折を経て大永元年(1521)には筒井・箸尾・越智・十市の4氏による連合体制が成立し、大和の安定をもたらした。それは興福寺の権威・権力を利用するもので、転覆しようとするものではなかった。「中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした」(278ページ)。両面を評価すべきであると呉座さんは言う。

 呉座さんが主として依拠した史料が、奈良で書かれたものであったために、この書物は一方で「応仁の乱」について語り、他方で「中世都市奈良」について語るという二重性をもち、必要以上に著述の量が多くなっているように思われる。「中世都市奈良」については、既に安田元久さんの著書があり、呉座さんは安田説にそれほど大きな意義を唱えていないように思われるので、それならば削ってしまってもよかった部分が少なくないのではないかと思割れるのが残念である。もっとも、大和の西隣の河内に勢力の基盤を持つ畠山氏の動きが詳しく論じられているという長所もあるので、一概には言えない。
 応仁の乱の前後の動きと、室町幕府の性格をめぐって、新しい知見を数多く得ただけでなく、これまでばらばらに知識として記憶していたことが、この書物を読むことで整理され、さらにまとまった理解へと向かってきているように思う。さらに読み返し、またほかの書物も読むことで、自分なりの考えをまとめていきたいものである。
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