宮崎市貞『水滸伝――虚構のなかの史実』

4月3日(月)晴れ

 宮崎市定『水滸伝――虚構の中の史実』(中公文庫)を読み終える。1972年に中公新書の1冊として発行された時、さらに1993年に中公文庫から発行された時に、それぞれ買って読んでいる。今回の改版を読み終えたので、少なくとも3回は読んだということである。

 宮崎市定(1901-95)は『科挙』、『九品官人法の研究』など官吏登用制度を中心に中国の政治・社会・制度史研究に従事した歴史学者であるが、フランス留学の後に遊学した各地の紀行である『西アジア遊記に見られるように、より広い世界への関心を失わず、また『七支刀の研究』など日本の古代史についても独自の視点から興味深い研究を展開した。

 著者は旧制中学時代に父親の蔵書の中から『水滸伝』を見つけて何度も読み返したとそうである。著者が東洋史、その中でも中国の宋の時代に興味をもち続けてきたのは、中学時代のこの読書の影響があるのではないかと自認しているほどである。歴史家として、『水滸伝』を読み返すと、次のような特徴が見いだされるという。「水滸伝ははるか後代になって完成したものには違いないが、まったく虚構の物語ではなく、その中に幾分の史実を含んでいる」(9ページ)。物語の中には何人かの歴史上実在の人物が登場するが、「それらの描写が意外に正しくその性格を表しているという面もある」(同上)だけでなく、宋代に流布していた世間話の類が意外に多く水滸伝の中に取り入れられていることが分かってきた。それで、世相や生活様式などの面でも、『水滸伝』に描かれているものが、宋代のものとして説明できる例が少なくないという。『水滸伝』は登場人物が多く、その多くの登場人物がどのようにして梁山泊にたどり着くかの過程を描く短編小説の寄せ集めという形になっているが、それらの短編は、講談や戯曲として実演され、長い間かかって民衆とともに成長してきたもので、優れた構成と描写を見せるものが少なくない。民衆とともに育ってきた文学なので、必然的にその中に反体制的な思想を含んでおり、そのために政府からはしばしば発売禁止の命令を受けた。しかし、実際には多くの家に『水滸伝』が蔵され、読み書きを習った男の子たちは親に隠れてこっそりと『水滸伝』を読みふけることが続いた。そういう長い伝統を考えると、『水滸伝』は中国を理解するのに欠かせない書物であると著者は述べている。

 以上は、「まえがき」で著者が書いていることを私なりにまとめてみたものであるが、この書物は次のような構成をとっている。
第1章 徽宗と李師師
第2章 二人の宋江
第3章 妖賊方臘
第4章 宦官童貫
第5章 奸臣蔡京
第6章 魯智深と林冲
第7章 戴宗と李逵
第8章 張天師と羅真人
第9章 宋江に続く人々

 著者は「あとがき」で「水滸伝から、「水滸伝の人物」を造る作業は・・・紀事本末を紀伝体に書き直すことである。水滸伝はそのまま紀事本末体の物語であるが、本書では最初に「徽宗本紀」とでもいうべきものをおき、次から宋江、方臘、童貫らの列伝が列伝が記される」(229ページ)と書いている。「紀事本末体」というのは歴史の記述法の1つで、1事件ごとに、そのことの起こりから結末にいたるまでを書き記したものをいう。確かに『水滸伝』は紀事本末体で書かれていて、大臣蔡京に誕生日祝いとして贈られる十万貫の金銀財宝を青面獣楊志が率いる十数名が運んできたのを、托塔天王晁蓋とその仲間たちが奪い去る事件について、時系列に沿ってではなく、それぞれの登場人物に即して物語を進めている。
 本紀・列伝については、それぞれ『水滸伝』本文だけでなく、当時の歴史史料に加えて説話集のようなものからも引用して興味深いエピソードを詰め込んでいる。あまり詳しく紹介すると、読んだ時の楽しみがなくなってしまうので、適当に抜き出してみる:
 第1章では徽宗皇帝が即位する際に、その人物について「浪子(ろうし)のみ」(20ページ、放蕩息子である)といわれたこと、即位すると数々の道楽にふけったが、分けても李師師、さらに趙元奴という遊女のもとに通ったのはあまり例のないことである。
 「一天万乗の君主が常習的に青楼に微行しても別に危険を感じたらしい気配のないのは、また特筆すべき事実である。それは国都の開封府の人気がきわめてよかったことを物語る。更にそれは経済的に好景気で、一般の生活が楽であった証拠である。ただしこれは大臣の蔡京の人為的な操作による結果で、全国の富を国都に集中してばらまいたためであった。国都の人心は好景気に寄っている間に、地方では政府の搾取に苦しみ、人民の経済が破綻しかけるという深刻な危機に直面していたのであった。」(32ページ) 李師師は明妃、趙元奴は才人という女官の位を授けられていたというのだから、ひどいものだが、靖康の変の後、金軍の捕虜として幽閉された徽宗が単調でさびしいから趙元奴をこちらへ送ってほしいと要求したという話も書き留められている。なお、幸田露伴が李師師について「師師」という文章を書いていて、『水滸伝』に登場する一番の美人は彼女であると書いていたことを思い出す。また読み直していよう。(趙元奴も名前だけなら『水滸伝』に登場しているので、宮崎の書くところを信じれば、若い趙元奴の方が美人であったかもしれない。)

 第2章の「二人の宋江」では、梁山泊の首領であった宋江が宋王朝に帰順して将軍となり、方臘退治に功績をあげたという『水滸伝』の記述から、歴史にその名の見える盗賊の宋江と、方臘討伐軍の将軍である宋江は同一人物と考えられてきたのに対し、二人は別人であるという説が展開されている。また、『水滸伝』の文学的な面白さということからいえば、豪傑たちが勢ぞろいするところで物語を打ち切って一向にかまわないという意見も述べられている。(議論はもう少し専門的ではあるが…)

 第3章の「妖賊方臘」は、北宋末の宣和2年(1120)中国の南方で起きた方臘の乱の次第を、『水滸伝』との関係で述べている。梁山泊の豪傑たちは、宋王朝に帰順したのち、各地で戦って功績をあげるが、その間、戦死者は一人も出ない。ところが、方臘の反乱軍との戦いになると、道士の入雲竜公孫勝が去っていったこともあり、苦戦が続き、多数の戦死者を出す。その難敵の方臘と彼の起こした暴動の性格と限界、とくに西方のマニ教の一派であったらしい喫菜事魔との結びつきなどが語られている。
 そしてこの時代に蔓延したニヒリズムと残忍さを取り上げて、宋代を中国のルネサンス時代だというのはおかしいという議論に対し「歴史学は事実の学問であるから、理想や観念によって振り回されてはならない」(81ページ)として、「一方においては進んだ理想と、他方においては立ち遅れた現実と、両者の間のアンバランスこそ西洋ルネサンスの特徴であった」(同上)と指摘しているところに、歴史家としての宮崎の真骨頂が現われているように思うのである。

 以上、紹介してみたように、一方で長年の研究によって積み重ねられた事実の累積と、そこから引き出された社会や人間についての観察があり、他方で、広い視野から見た歴史の動きについての洞察があって、そうした歴史についての知見の持ち主である宮崎が『水滸伝』という文学作品を題材として描かれた世界を改めて見つめなおしているのだから、面白くないわけがないのである。機会を見て、第4章以下の内容も紹介するつもりなので、ご期待ください。
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