『太平記』(152)

4月2日(日)晴れ
 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。ようやく出発することになったところで、義貞が瘧の病に倒れ、新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かう。江田、大館は緒戦に勝利し、西国の朝敵を退治するのは容易であるとの連絡を送り、病気が治った義貞もようやく出陣する。各地から武士が集まって義貞に従う兵は6万余騎になった。

 この勢いでただちに赤松を討伐しようと、新田義貞の率いる兵は播磨国揖保郡の斑鳩の宿(揖保郡太子町鵤)まで押し寄せてきたので、赤松入道円心は義貞のもとに一族の小寺藤兵衛尉を使いに出して、次のようにいう。「円心は不肖の身ではありますが、元弘の初めに、鎌倉幕府の大軍と戦い、幕府軍を後退させたこと、おそらくは第一の忠義の証であると思います。ところが、恩賞として与えられた土地が、降参した卑怯な敵方よりも少なかったので、一時の恨みにより、長年の忠功を捨てて背きました。とは言うものの兵部卿親王(大塔宮護良親王)のご恩はいつまでも末永く忘れられないものでありますので、足利方についたのはまったく私の本意ではありません。要は、今すぐ播磨の国の守護職に任命するという綸旨と御辞状(任命書)を頂ければ、元通り宮方の味方となり、忠節を尽くす所存です。」
 これを聞いて義貞はこの件はそれならば問題あるまいと、すぐに京都に飛脚を立て、守護職に補すという綸旨を頂こうと計らう。その使いが往復するのに、10日以上かかったので〔義貞の軍勢が兵庫県の西南部にいることを考えると、京都との往復に10日以上かかるというのは、かかりすぎである。あるいは、京都に到着してから、綸旨の発行までに時間がかかったということであろうか〕、その間に赤松は城の防備をすっかり固めてしまい、播磨の国の守護職は、すでに将軍(足利尊氏)からいただいているので、手のひらを返すように始終変転する綸旨を、当てにすることはないと、嘲りながら義貞からの使節を返したのであった。

 義貞はこれを聞いて、「王事もろい事なし」(第3分冊、37ページ、帝の事業は堅固であり、それへの務めはいい加減ではならない)、といい、恨みを抱いて朝敵になることはあっても、天の下に生きて天を欺くことができるだろうか。こうなったら、ここで数か月をかけても、赤松の城を攻め落とさなければ道理が立たないと6万余騎で、赤松のこもる白旗の城を百重千重〔どうも大げさである。とにかく厳重にということであろう〕取り囲み、夜昼50日、息を継がせずに攻撃を続ける。ところが、この城は四方が皆切り立ったがけで、人が昇るような足掛かりはなく、兵糧や水、薪はたくさん備えられているうえに、播磨、美作の名だたる射手が800余人も城の中にこもっていて、新田軍が攻めかかっても、矢に射られて負傷者が増えるだけで、城の中に動揺が起こる気配はない。

 義貞の弟である脇屋義助は、この様子を見て、兄の義貞に次のように述べた。先年、楠正成が籠もっていた金剛山の城を、日本忠から集まってきた武士たちが攻めあぐねて、足止めをされ、結果的に鎌倉幕府の天下が覆されてしまったことは北条氏が後悔していることではないでしょうか。わずかな小城1つに取り掛かり、漫然と日数を送っていると、味方の軍勢は兵糧の乏しさに苦しみ、敵陣の城はいよいよ力を得る危険があります。そのうえ、尊氏はすでに九州を平定して上洛するという噂なので、近づいてくる前に、備前、備中を退治して、安芸、周防、長門の軍勢を味方につけなければ、大変な事態になってしまうと思います。とはいうものの、今までッ攻撃していた城を落城させないままに退却すると、天下のあざけりを招くことになるかもしれませんので、軍勢のうちわずかな部分をここに残して、それ以外の軍勢を船坂(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原と岡山県備前市三石の間の峠)に差し向け、まず山陽道を攻め開いて中国の軍勢を味方につけて、九州へ攻め下るべきでしょう。
 この意見を義貞ももっともだと思い、(義助を城攻めのために残し、自らは)宇都宮と菊池の軍勢を率い、土地の地理に詳しい伊東大和守、頓宮(はやみ)六郎を案内者として、2万余騎で船坂山へと向かったのであった。

 船坂山というのは、山陽道第一の難所で、2つの急峻な峰がそびえている中に細い道が一本通っている。谷は深く、石は滑りやすく、曲がりくねった道を上ること20余町(2キロ以上)、雲と霧が立ち込めて暗く、先が見えない。「一夫怒りて関に臨まば、万侶(ばんりょ)通ることを得難し。」(同上、39ページ、一人の男が猛って関を守れば、万人の兵士たりとも通ることができない。杜甫の剣門という作品の「一夫怒って関に臨まば百万も未だ傍(そ)ふべからず」という行が念頭にあるという。唱歌の「箱根山」にも同じような歌詞があるのを思い出した方もいらっしゃるだろう。) それだけでなく、岩石に穴をあけて細い橋を渡し、大木を倒して防御柵としたので、何百万騎の軍勢でも、攻略できるとは見えない。それで、勇み立ってやってきた菊池、宇都宮の軍勢は、麓に控えて進むことができない。案内者として頼りにされた伊東、頓宮の武士たちも、山を見上げて、いたずらに日数を送るのであった。

 後醍醐天皇たちが京都に戻った後の2月25日に、年号が建武から延元に改められていて、15巻にこの改元のことも記されているのだが、『太平記』はそれを忘れたかのように、旧年号を使っている。足利方はこの改元を認めずに建武を使い続けていたことも影響しているのかもしれない。
 京都から派遣された義貞軍は、赤松の時間稼ぎの計略に引っかかって、赤松のこもる白旗城をなかなか攻略できず、他の城を攻略した方がいいという義助の助言を聞いて、6万の軍勢のうち2万を率いて船坂山に向かった。しかし、軍勢を分けて戦線を拡大することが事態の打開に役立つかどうかは疑問である。さて、この後の戦局はどう展開していくのかは、また次回。
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