呉座勇一『応仁の乱』(16)

3月30日(木)晴れ

 11年にわたる応仁の乱(応仁元年1467~文明9年1477)は「京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ。」(199ページ) 細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍とが戦端を開くきっかけになったのは畠山義就と政長の家督をめぐる争いであったが、乱の終結後もこの問題は決着がつかないままであった。
 応仁の乱までの時期に、室町幕府を支えてきたのは、複数国の守護を兼ねる在京大名たちであった。「ところが応仁の乱終結後、大名たちは次々と分国へ帰っていった。朝倉孝景に越前を乗っ取られた斯波義敏・義寛父子を見ればわかるように、守護が守護代などに分国統治を任せ京都に滞在することは、もはや百害あって一利なしだった。」(231ページ)
 こうして大名たちが京都にいなくなると、幕府内では将軍親衛隊である奉公衆と文書行政を扱う奉行人との勢力が増大する一方で、奉公衆と奉行人の対立が激しくなった。義政の後に将軍になった義尚は奉公衆の支持を集め、寺社本所領の回復という政策を掲げながら、その実、奉公衆たちが寺社領の代官としてその力を蓄えることを目指していた。長享3年(1489)、将軍足利義尚が死に、義政の妻、義尚の母である日野富子が、細川勝元の後継である政元の反対を押し切って、義政の弟である義視の嫡男の義材を将軍とした。ところが富子が将軍御所として使われていた小川殿を義材と将軍の座を争った清晃(義政の庶兄である政知の息子)に与えようとしたことから義視・義材父子と富子の関係が悪化、延徳3年(1491)に義視が死ぬと、義材はいよいよ孤立し、側近政治に走り、旧来の幕臣たちの支持をますます失ったのであった。

 長享3年(1489)7月にそのころはまだ生存していた足利義政は在京と寺社本所領の返還を条件に六角高頼を赦免したが、荘園現地を実効支配している高頼の家臣たちが返還命令に抵抗し、近江は依然として騒然としていた。延徳3年(1491)8月に、将軍義材は義尚が長享元年(1487)が行った企てに続く、第二次の近江遠征を試みた。義尚の場合と同様に、奉公衆との結束を強化し、かつ彼らに恩賞を与えるための遠征であったと考えられる。討伐軍は勝利を重ね、明応元年(1492)末に京都に戻った(ただし、六角高頼の首級をあげることはできなかった。)

 近江の次に河内に遠征すると決めていた義材は明応2年(1493)2月、京都を出発して、24日には正覚寺(現在の大阪市平野区加美正覚寺の旭神社境内にあった)に陣を構えた。畠山政長と畠山氏の家督を争ってきた義就は延徳2年12月に病没し、基家が後を継いでいたが、その基家の本拠地である高屋城(現在の大阪府羽曳野市にある)との距離は10キロメートルほどである。「数に勝る幕府軍は戦局を優位に進め、次第に包囲網を狭めながら高屋城に迫っていた。」(243ページ)

 ところが思いがけない事態が4月22日に起きる。その日の晩、京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢貞宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(足利義逴=よしとお、後に義高、義澄と改名)。これを明応の政変という。
 反義材派の京都制圧を知ると、諸大名や奉公衆は次々と義材を見捨てて京都に帰還してしまった。義材のもとに最後まで留まった幕臣は畠山政長をはじめとするわずか40人ほどになってしまった。もともとさしたる大義名分もなく、戦勝によってもたらされる利益の薄い戦争であったために、幕府軍の戦意は低かった。
 政変により河内の戦況は一挙に逆転し、足利義材と畠山政長・尚慶(ひさのり→尚順=ひさのぶ)父子は正覚寺に孤立した。閏4月25日、正覚寺は陥落し、政長は自害、尚慶は紀伊に逃亡、義材は捕縛されて京都に護送され、細川政元の重臣である上原元秀の邸に幽閉された。

 呉座さんの本から離れることになるが、政長の自害をめぐっては有名な説話がある。政長はもともと足利将軍家のものであったという粟田口の名工、藤四郎吉光の短刀で腹を切ろうとするのだが、腹に刀を突きたてても刃が通らない。それでこれは名刀だと言われているが、役に立たない道具だと言って投げ捨てると、そばにあった薬研(漢方の薬種を細粉とする金属製の器具)を裏まで突き通した。そばにいた家臣の丹下備前守が自分の差料である信国の脇差で自分の膝を2度切って試し、主君に渡し、それで政長は腹を切ったという。ここから、この刀は<薬研藤四郎>と呼ばれ、藤四郎吉光の短刀は切れ味は抜群であるが、主人の腹は切らないという言い伝えが生まれたという。<薬研藤四郎>はその後、室町幕府に戻り、さらに松永弾正から織田信長に献上され、本能寺の変を経て豊臣秀吉のものとなり、秀頼に伝えられたという。大坂城落城後に徳川家康に献上されたという話もあるが、刀の長さの記述が違うので、吉光の別の刀ではないかという説もある。とにかく、現在では所在不明の幻の名刀になっているそうである。

 政長自刃の後日談が幸田露伴の短編小説「雪たたき」である。明応2年12月の初めの堺の街はずれというわけではないが静かな一角。前日の夕方から降り出した雪が積もる中、田舎の方から町へと歩んできた一人の男が、下駄の刃の間に雪が詰まって歩きにくくなり、近くの家の小門の裾板に下駄をトントントンとぶつけて雪を落とした。と、門が開いて、男は家の中に迎え入れられた。家の中で思いがけない富貴を見せられた男であったが、彼が案内された部屋にあった笛を手に取って、姿を消した。
 題名になっている「雪たたき」は下駄の刃の間に詰まった雪を叩き落とすことであるが、家の中にいた女はそれを、かねてから決められていた合図と間違えて、間違った人物を迎え入れたのである。男が持ち去った笛は畠山家に伝わるゆかりの品であって、やがて男の住処を探し当てた畠山家の遺臣たちが男のもとに返還を迫りにやってくる。
 その後、遊佐河内守の率いる畠山の残党は平野城を攻め落とし、大和に潜んでいた尚慶を迎えて、河内の高屋城を本拠として畠山家(尾州家)を再興したのであった。
 なんとなく、わかりにくい話で、その後、海音寺潮五郎がさらにこの小説に着想を得て「剣と笛」という小説を書いているそうであるが、こちらは未読。

 閑話休題。いったん、京都に幽閉された義材は脱出して越中に逃れ、自分こそが正統の将軍であるとして、一部の大名や奉公衆・奉行人の支持を集めて失地回復の戦いを続ける。この後「二人の将軍」が常態化し、戦国時代の近畿地方の政治史は「二つの幕府」の抗争史という性格をもつことになるが、これは既に応仁の乱で見られた構図の延長線上にあるものだと呉座さんは説いている。
 細川政元、日野富子と結託して明応の政変を成功させた伊勢氏は、山城への支配を強化しようと企み、もともとは興福寺に仕える官符衆徒であった古市澄胤を守護代として起用、細川政元の消極的な姿勢も手伝って、山城国人の抵抗を排除していくことになる。クーデターにより政権の掌握を図った政元であったが、その後の畿内の情勢は彼の思惑通りには進まなかったのである。

 応仁の乱が終わり、明応の変を経て、いよいよ「京の将軍、鎌倉の副将、武威衰えて偏執し」という『八犬伝』の書き出しのような事態が展開することになる。尾張と越前の守護であった斯波氏は、越前を朝倉氏に乗っ取られ、やむなく尾張だけを自分の分国として、その支配を固めようとする。義材の第二次六角征伐に際して軍功を挙げた武士として名が挙げられている1人が斯波氏の尾張守護代である織田敏貞であるというふうに、守護代クラスの武士たちが大いに力をつけて、やがては守護に取って代わろうとしているのである。(既に書いたかもしれないが、織田氏は越前の二ノ宮である劒神社の社家であって、劒神社の所在地である織田をその姓としたのである。どうでもいいけれども、福井県の織田は「おた」と読む。)

 次回は「終章 応仁の乱が残したもの」について紹介・論評する。思いがけず、長い連載になってしまったが、こうやって読んでいくうちにずいぶん自分の知識を整理しなおすことができた。それでも露伴の「雪たたき」など、まだ十分に得心がいっていないところがあって、また機会を改めて読み直してみようと思う。
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