呉座勇一『応仁の乱』(15)

3月23日(木)午前中は曇り、その後晴れ間が広がる

 応仁元年(1467)5月、畠山義就によって畠山氏の家督を奪われた政長を支援する細川勝元は、将軍御所を包囲し、義就を支持する山名宗全と全面対決の体制に入った。その後、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の始まりである。この戦乱は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏のほかに、別の管領家である斯波氏の家督争いも絡み、さらには将軍義政の後継者をめぐる対立など、幕府内の様々な利害関係が絡んだ複雑な性格をもつものであった。
 細川勝元の率いる東軍には政長のほかに、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢などの大名が加わり、山名宗全の率いる西軍には義就のほかに、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わっていた。当初、将軍義政を囲い込んだ東軍が有利であったが、中国地方から大内政弘が上京すると西軍が勢力を挽回して、義政の弟である義視を迎えて西幕府を成立させた。この時代、井楼に代表される防御施設の発達により、両軍ともに短期の戦闘で決着を図ったにもかかわらず戦闘は長期化し、また味方の補給路の確保、敵の補給路の遮断を目指しての戦闘地域の拡大も見られた。
 戦乱が長期化する中で、厭戦気分が高まり、補給路が確保できなくなった西軍が次第に解体していくなかで、文明5年(1473)に宗全と勝元が相次いで死去、文明6年(1474)4月には山名一族と細川一族の間での和睦が成立したが、西軍の残りの将兵は畠山義就、大内政弘を中心になお戦闘を継続した。しかし、文明9年11月に大内政弘は幕府に降伏、義就は河内へと撤退して、大乱は形の上では終わった。「11年にわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ」(199ページ)。
 戦争の終結後、将軍義政は武家勢力からの寺社本所領の返還を求める政策を打ち出す(実際は寺社の保護よりも自分の側近の武士たちの勢力拡大を図るものであった)が、幕府の主導権をめぐる実子の義尚との対立もあって、幕政の再建は思うように進まなかった。

 応仁の乱が終結すると、南山城を占拠していた西軍が撤退し、畠山政長が山城守護に就任した。権力の衰退によって全国からの収入が期待できなくなった室町幕府は、お膝元の山城国からの収奪を強化することで財政を再建しようとしたのである。しかし政長は義就との戦いで不利な状況に陥っており、宇治以南の山城3郡(相楽・綴喜・久世)が義就の勢力圏に入って、幕府の影響力が全く及ばないという状態であった。幕府内部での足並みの乱れもあり、義就方と政長方の対立が続いていた。

 文明17年(1485)に政長方が大攻勢を仕掛け、両軍のにらみ合いが続く中で、南山城の国人(地元武士)たちが「国一揆」を結成して、両軍に撤退を要求して圧力をかけたため、両軍はともに撤退した。国人たちもまた寺社本所領の返還を求めたが、それは結局自分たちが寺社領の代官となって勢力を拡大することを目指すものであった。文明18年(1486)2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法」を制定、自分たちの自治を行おうとした。これに対し、足利義政は伊勢貞陸を山城守護に任じて幕府による直轄支配を目指すが、実態としては国人たちの自治を黙認する形となった。また義就の南山城からの撤退を評価して、彼の斜面が実現した。応仁の「乱後の幕府は衰退する一方であったと思われがちだが、少なくとも畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)においては、それなりの政治的安定を実現したことを見落としてはならない」(225ページ)。
 この山城国一揆をめぐって、その黒幕は細川政元であったという説もあるが、呉座さんはむしろ政元は両畠山の紛争に不介入の態度をとろうとした、もっと平たく言えば、強力な軍事力をもつ義就との対決を回避していたのではないかと論じている。そして、このことから政元と政長との間に隙間風が吹き始め、それが明応の政変の伏線となると論じている。

 文明17年4月に、将軍義尚との対面の順番をめぐり、将軍の親衛隊=武官である奉公衆と文書行政を取り仕切る文官である奉行人との間の対立が激化、その後も尾を引きずった。応仁の乱後、大名たちが本国へ引き上げたため、奉公衆と奉行人の幕府内での存在感は高まってきており、両者の間での対立も顕著なものとなっていた。「だが平時においては、事務官である奉行人たちのほうが明らかに有利である。押され気味の奉公衆が、足利義政に頭を押さえつけられている義尚に接近していったのも、これまた必然といえよう」(231ページ)。そうした中で義政は政務への意欲をますます失ったが、以後も気まぐれに政治に口を出し、義尚にとっては障害以外の何物でもなくなっていったのである。

 長享元年(1487)9月、足利義尚は近江守護六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。討伐の理由は高頼が寺社本所領や奉公衆の所領を占拠し、幕府による返還命令に従わないことである。もっとも寺社本所領回復は建前で、真の目的は奉公衆の所領回復の方にあった。大名の多くは六角高頼同様に寺社本所領や奉公衆所領を守護領に組み込んでいたので、この遠征には消極的で、討伐軍の主力は奉公衆であった。
 六角高頼は一戦して敗れると、すぐに行方をくらまし、以後は六角家臣の散発的な抵抗が続くだけであったが、義尚はそのまま在陣を続けた。義尚には、この戦いを続けることで、将軍と奉公衆との主従関係を強化しようという目的があったと呉座さんは推測している。さらに、奉公衆だけでなく、奉行人たちも同行させたことから、幕府の機能を近江に移動させることで、義政の影響力をそごうとしていたとも論じている。
 しかし、在陣が長引けば長引くほど、将軍義尚と周囲の諸勢力との軋轢は増していった。在陣に反対する勢力の筆頭が細川政元であり、政元ら大名と将軍接近勢力の間の対立は激しくなり、その中で苦しんだことも手伝って、長享3年(1489)義尚は没し(享年25歳)、討伐軍は帰京することとなった。

 足利義尚死後、誰を将軍位につけるかが問題になった。候補者となったのは義政の弟である義視の嫡男で24歳の義材と、義政の庶兄である政知の息子で9歳の清晃である。細川政元は自分の御しやすそうな清晃を推したが、日野富子が自分の妹の生んだ子である義材を推し、足利義政も同調したために義材が後継者に決まった。しかし、細川政元の巻き返しもあり、義材は将軍に就任せずに、当分は義政が政務をとることになった。延徳2年(1490)正月7日に、足利義政が没し、義材の将軍就任は時間の問題となり、その父である義視が幕府の実権を握った。

 ところがもともと細川勝元の邸で、その後足利義政、義尚が御所として利用、日野富子の邸宅となっていた小川殿を富子が清晃に譲ったことから、富子と足利義視・義材父子との関係が悪化した。もとは細川氏の邸宅だったとはいえ、今や「将軍御所」と認識されていた小川御所を清晃が譲られたというのは大きな意味を持つ。これを喜ばない義視は、清晃が入居する前に、小川殿を破壊してしまった。この暴挙をきっかけとして日野富子は、義視・義材父子を敵視するようになった。

 延徳2年7月に義材は朝廷から将軍宣下を受けるが、就任のための儀式が終わると、管領であった細川政元はすぐに辞任、将軍の側近であった伊勢貞宗も隠居して非協力の立場を表明した。10月には義材の母良子がなくなり、延徳3年正月には父の義視が病没して、将軍義材は孤立を深めた。幕府内に支持基盤を持たない足利義材は側近政治に走り、お友達政治を進めたので、旧来の幕臣たちの反感を募らせ、ますます孤立するようになったのである。

 15回かけてもまだ紹介・論評が終わらないのは、呉座さんの著書の内容の濃密さを物語るものであろう。もう応仁の乱が終わったのだから、あとは簡単に見ていけばよいと思う方もいらっしゃるだろうが、孤立を深めている義材将軍に対して、細川政元が起こしたクーデターである明応の政変をめぐって、この書物から離れて書きたいことが少しあって、そのことも手伝って長々と連載しているという事情もある。室町幕府が決定的に求心力を失うのは、応仁の乱ではなくて、明応の政変によってであるというのが最近の学説らしく、そのことについても検討を加えていくことになるだろうと思う。 
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