『太平記」(150)

3月19日(日)晴れのち薄曇り

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方の軍勢は比叡山を根拠地としていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に京都から撤退した。摂津へ落ちのびる途中、尊氏は供をしていた薬師丸に光厳上皇から院宣を頂いてくるように命じた。持明院統の上皇の院宣を手に入れることで、後醍醐天皇に対抗しようとしたのである。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州に落ちた。2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。
 わずかの軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。宮方の菊池武俊が尊氏方の少弐の城を攻め落とし、さらに多々良浜に攻め寄せた。尊氏は敵味方の軍勢の違いに一度は自害しようと思い詰めたが、直義に諫められて考え直す。運が味方したのであろうか、尊氏軍は100倍に余る菊池軍を退け、菊池軍の搦め手の松浦・神田の軍勢は尊氏軍に降伏、菊池軍は肥後の国に引き返した。

 戦闘の常として、勝ちに乗じると鼠が虎となり、勝機を逸すると虎も鼠となるといわれるが、尊氏はこの勝利に気を能くして、一族の一色太郎入道道祐(範氏)、仁木義長を派遣して、菊池の居城を攻撃させた。いったんは勢いに乗っていた菊池であるが、劣勢になるとひとたまりもなく、1日も持ちこたえることができずに、山奥へと逃げ籠もったのである。

 次に尊氏軍は、肥後の八代の城に押し寄せ、この城を守っていた名和長年の家臣の内川彦三郎を攻め落とす。さらに多々良浜の合戦に参加していて、重傷を負っていた阿蘇大宮司八郎惟直は、肥前の小杵(おつき)山(佐賀県小城市の天山)で自害してしまった。その弟である苦労は、道に迷った挙句に、土地の農夫に生け捕りにされてしまった。同じく宮方の武士である秋月は、大宰府まで落ちたのだが、そこで一族20余人が、戦死してしまった。九州の宮方の有力武将がこのように一斉にうち滅ぼされたために、九州と壱岐・対馬の武士たちは、皆こぞって尊氏に付き従ったのである。

 これは菊池が不覚をとったというわけではなく、直義の謀が功を奏したというのでもないと『太平記』の作者は記す。ただ、よい果報をもたらす前世での善行が現われて尊氏が天下の主となるべく、神々がその真意を尊氏に加えたので、九州での戦闘に勝つことを出て、九州さらには中国地方を制圧することが出来たという。

 さて、九州の武士である松浦(まつら)、神田(こうだ)たちが、尊氏方が少数であったのに大勢であると錯覚して降伏した問うわさが広まってきたので、尊氏は、主だった家臣である高、上杉の人々に向かって、次のように述べた。「言葉の下に骨を消し、笑みの中に刀を研ぐというのが、このごろの人の心である。それで、原田対馬守は少弐入道の婿であったのに、策略をめぐらし、義理の父である少弐入道を討ち果たしたという最近の例がある。これを見ても、松浦、神田は、ひょっとして叛心を抱いていて、そのために一兵も損なわないままに乞うふうしたのではないかと、不審に思われるところがないでもない。というのは、まことの信心があるときには、神仏がそれに応えて奇蹟を表すことがあるといわれてきたことではあるが、味方の軍勢はそれほどの大ぜいに見たということも、現代のような末世ではありそうもないことであり、信用できない。方々もその旨を心にとめて油断しないようにしてほしい」。

 すると、末席にいた高駿河守(師茂。尊氏の執事である師直、師泰の弟)が進み出て申し上げる。「まことに人の心を推し量るのがむずかしいことは、天よりも高く、地よりも厚しといわれてきたことではありますが、このような大事業に取り組もうとお考えになるときは、そのように人の心を不審に思われてばかりいると、速やかな成功を遂げられなくしてしまうでしょう。さらに味方の軍勢が多く見えたというのは噓ではなかったと思われます。このような不思議の先例は数多くあると聞いております。
 昔、唐の玄宗皇帝の時代に安禄山が反乱を起こした、皇帝の左将軍である哥舒翰が安禄山方の将である崔乾祐と潼関というところで戦った際に、黄色い旗を掲げた兵が10万余騎、突然現れて官軍の陣に加わりました。崔乾祐はこれを見て、敵は大軍であると思ったので、兵を引いて四方に逃げ散ってしまったといいます。その日、皇帝の使いが、先祖を祀る廟所である宗廟に詣でてみると、そこに置かれていた石人という石でできた人形たちの両脚が泥で汚れていたり、その体に矢が刺さっていたりしたので、さては黄色の旗を掲げた兵10万余騎は、宗廟の神が、兵隊の姿になって、反乱軍を退けたのだと、皆疑うことなく思ったということです。
 また、わが国では壬申の乱の際に天武天皇と大友皇子が天下を争われたのですが、備中の国二万郷(にまのさと、岡山県倉敷市真備町上二万・下二万)というところで、両軍が決戦を行いました。天武天皇の御軍勢はわずかに3百余騎、大友皇子の御軍勢は1万余騎でした。軍勢の多少を見ると、戦わずして勝敗は明らかだと思われたのですが、どこから来たともわからぬ兵2万余騎が、天武天皇の味方に現れて、大友皇子の軍勢を敗走させました。これがもとでその場所を二万の里と名付けたと言います。
 『源平盛衰記』によりますと、周防内侍がこのことを歌って
 君が代は二万の里人数そひて絶えず備ふる御調物(みつぎもの)かな
(第2分冊、506ページ、帝の御代は、二万の里人が二万人もの数で絶えず貢物を捧げるめでたい御代であることよ。)
と詠んだそうです。
 と中国と日本の故事を引き合いに出して、尊氏の武運が天意にかなったものであることを申し上げると、将軍もその場にいた人々もみな大喜びをしたのであった。

 岩波文庫版の脚注を詳しく見ていくと分かるが、この師茂の発言はかなりいい加減なものである。まず、潼関の戦いでは安禄山の反乱軍の方が勝って、哥舒翰は戦死したというのが歴史的事実であり、石人が兵隊となって表れたというのは後世の説話だそうである。壬申の乱の際に備中で両軍が衝突したというのも、後世にできた伝説であろう。「君が代」の歌は、周防内侍ではなくて、小侍従の歌だそうである。
 思うに、師茂はもっと素朴な発言をしたのであろうが、『太平記』の作者が勝手に尾ひれをつけ、その尾ひれがことごとくいい加減なものであったというのが真相であろう。『太平記』第9巻に、丹波の武士である久下弥三郎時重が尊氏のもとにはせ参じた時に、その旗の紋、笠符に「一番」と書いてあるのを見て、尊氏が不審に思うと、師茂の兄である師直が源平の合戦の際に久下の先祖が頼朝のもとへ一番に駆け付けたためにこれを紋にしていると答える場面があったが、師直だけでなく、その兄弟も武家の故事に通じていたことが推測される。

 以上で『太平記』15巻は終わる。岩波文庫版の第2分冊をこれで読み終えた。今回は150回なので、1巻につき10回というペースで進んできたことになる。『太平記』は全40巻(ただし第22巻が欠けているので、実際は39巻)なので、まだ前途遼遠である。吉川英治の『私本太平記』は第16巻の楠正成の戦死、山岡荘八の『新太平記』は第20巻の新田義貞の死までで打ち切られているが、私としては紹介のスタイルを変えることはあっても、最後まで物語を追い続けていきたいと思っている。
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