呉座勇一『応仁の乱』(14)

3月17日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の背景と結果とを含む全容を、同時代の興福寺僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2つの日記を基本的な史料として、明らかにするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて興福寺が事実上の守護であった大和という地方の特殊性と、室町幕府・京都との関係、史料の記述者の1人である経覚の経歴の前半について述べている。大和に隣接する河内は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏の本拠であり、応仁の乱の直接の原因となった畠山義就と政長による家督争いと、その大和の武装勢力との関係についても触れられている。
 第2章「応仁の乱への道」は嘉吉の変(1441)による将軍義教の暗殺から文正の政変(1466)にいたる幕政の混乱とその中での主導権争い、それと関連して起きた有力大名家の内訌と合従連衡、その中でも特に畠山氏の家督争いの展開、そのような中で義教によって失脚させられた経覚が再び表舞台に登場し、興福寺の荘園からの年貢をめぐる問題の対処に活躍する姿も描かれている。
 第3章「大乱勃発」は、文正元年(1466)に軍勢を率いて上洛した畠山義就が翌年初めに、自身の武力と山名宗全の後ろ盾をもとに畠山氏の家督を奪い、政長を放逐する(文正2年の御霊合戦)が、政長を支持してきた細川勝元が年号が変わった応仁元年5月に京都市内で戦端を開く。勝元の陣営(東軍)には勝元、政長のほか、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢ら、宗全の陣営(西軍)には宗全、義就のほか、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わった。将軍義政を確保した勝元が幕府軍の地位を得て、先制攻撃を懸けるが、西軍は持ちこたえ、中国地方から大軍を率いて上洛した大内政弘の活躍で反攻に転じた。応仁2年(1468)に兄である将軍義政と対立した義視が西軍に投じ、西幕府が成立した。両陣営ともに、短期の決着を図っていたが、戦局が長期化したのは、両軍ともに陣を堀や井楼で防御したため、市中における戦闘が実質的に攻城戦となり、さらに味方の補給路を確保し、敵の補給路を遮断しようと、周辺地域に戦闘が拡大するようになったためである。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦争によって荘園からの年貢の取り立てが困難になる中で、興福寺の別当(寺務)に返り咲いた経覚と大乗院門主の尋尊が対策に奔走する姿を描いている。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、興福寺・春日社と結びついた大和の国独特の武装勢力である衆徒・国民がこの戦乱にどのように対処したか、西軍優勢の中で、足利義政は西軍の有力武将である朝倉孝景の切り崩しに成功、朝倉が越前を抑えたことで、西軍の有力な補給路の1つが遮断されたこと、戦局が不利になる中で西軍は後南朝と結びつこうとするが、かえって西軍内での対立を招いたことなどが記されている。
 第6章「大乱終結」の前半では、疫病の流行や飢饉などにより、両軍の戦意が衰え、厭戦気分がみなぎってきたこと、和睦のための交渉が続けられたこと、文明4年(1472)に勝元、宗全ともに引退した(文明5年には、両者とも死去した)こと、西軍の補給路を遮断したことで東軍の優位が続く中、文明6年(1474)には細川・山名の和議が成立したものの、西軍の畠山義就と大内政弘はあくまで戦闘を継続しようとしたことが記されている。しかし、義政は政弘の懐柔に成功し、文明9年(1477)に政弘は幕府に降参、西幕府はなし崩し的に解体し、戦争は終結した。

 今回は第6章の残りの部分、応仁の乱終結後の大和の情勢について触れた部分と、第7章「乱後の室町幕府」の幕府による再建の取り組みを辿った部分を取り上げることにする。
 史料の1つである『経覚私要鈔』の記述者である経覚は文明5(1473)年に死去していた(勝元、宗全と同じ年のことである)。呉座さんは両者の日記を比較することから、その関心の対象や、記述者自身の性格をめぐり、次のように指摘している。
〔「天魔の所行」「寺社滅亡の基(もとい)」などと頻繁に乱世を嘆く尋尊と異なり、経覚は応仁の乱という戦争全体に関する感想を記すことはなかった。経覚の関心は政治や社会情勢ではなく、もっぱら自分と親交のある人々の動向に向けられた。」(199ページ) たとえば自分と親しい朝倉孝景が越前を制圧すると、彼が西軍から東軍に寝返ったということは不問にして(経覚は西軍びいきである)喜んでいる。これは「越前での合戦のせいで、河口荘からの年貢が入ってこないのではないかと心配する尋尊とは対照的である。」(200ページ)

 経覚の死後、尋尊は彼の日記などの諸記録を取り寄せた。2人の微妙な関係のために、尋尊は経覚の日記を見ることができなかったのである。「経覚が没した時、尋尊は既に44歳であった。多くの記録を調べ上げ、大乗院の歴代門主の中でも随一といってよいほどの博識となった尋尊にとって、いまさら経覚の日記から学ぶことはほとんどなかっただろう。それでも経覚の記録を即座に入手する尋尊の学究心には感心させられる。」(200ページ) 惜しいことに、おそらくは尋尊が知りたがっていた古い記録は文安2年(1445)に起きた兵火のために焼けてしまっていた。
 経覚はかなりの額の借金をしていたが、このようなこともあろうかとかねてから準備をしていた尋尊は借金取りを丸め込んだだけでなく、経覚が経営していた所領の回収に動き、成功している。「将来発生するであろう問題を予見し、事前に対策を練っておく尋尊の手腕は見事というほかない。大乱の傍観者と侮っていると、尋尊の本質を見失ってしまうだろう。」(204ページ)

 文明9年(1477)に大内政弘の降伏によって孤立した畠山義就は、9月22日に京都を出発して、野崎(大阪府大東市)にまで進出し、政長の重臣遊佐長直が守る若江城をうかがう構えを見せた。幕府側もある程度は予測していたであろうが、河内における義就の勢いは予想以上のものであった。政長に泣きつかれた義政は、朝廷に畠山義就治罰の綸旨を要請し、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の力で義就を討伐しようとするが、時すでに遅く、義就は河内を切り取ってしまう。
 このような軍事的進出は、義就の名望・魅力によるものが多いと呉座さんは論じている。「畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれた御曹司でありながら、権威をものともせず、実力主義を貫く点にある。」(206-207ページ) 山名宗全が室町幕府の秩序の枠内で行動しているのに対し、義就には「そもそも幕府の命令に従うという発想がない。…彼の本質は幕府の権力に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢にある。中央からの統制を嫌う地方武士たちが義就のもとに集まったのは、このためである」(207ページ)として、朝倉孝景や北条早雲とともに「最初の戦国大名」に数えてよい存在であると評価している。

 河内を制圧した義就はその矛先を大和へと向ける。おそらく義就と示し合わせて、京都にいた大内政弘が重臣に兵力を与えて山城国を南下させた。このため、筒井氏をはじめとする大和の政長方勢力は四散してしまった。尋尊は筒井順尊の代わりに、義就との太いパイプを持つ古市澄胤(第5章に登場した古市胤栄の弟)を官符衆徒棟梁に任じ奈良の治安を確保しようとする。筒井は復権を目指して策動を続けるが、大和での影響力を次第に失っていく。

 さて、第7章「乱後の室町場幕府」では、まず、応仁の乱によって将軍の権威が失墜したとはいっても、「足利義政も巷間言われるほどに無為無策だったわけではなく、幕府再建に努力している。その柱が寺社本所領返還政策である」(214ページ)と、寺社が守護に奪われた所領を元に戻す(「徳政」の一種)政策の再開について論じている。しかしこの政策は、実は寺社と守護の対立の中で、自力で守護勢力を排除できない寺社に将軍側近の武士たちを派遣して援助させることにより、将軍権力の強化を図ろうとするものであった。
 
 義政の子である義尚は文明5年(1473)に征夷大将軍となっていたが、文明11年(1479)11月22日に判始(はんはじめ)を行い、法的な責任能力を持った大人として政治に携わることができるようになった。しかし、父である義政が依然として政務をとり続けていたため、文明12年5月、突如本鳥を切って出家を図るなど不満をあからさまにした。
 周囲の人々になだめられて気を取り直した義尚は、摂政関白の経験者で当時一流の学者であった一条兼良(尋尊の父であり、第4章では奈良に「疎開」して優雅な暮らしをしていた)に政治の心構えを諮問し、兼良は政治意見書『樵談治要』を執筆、7月に義尚に献上した。しかし、そこにはきれいごとの建前論しか書かれておらず、実戦的・具体的な提言に乏しかった。「ちなみに兼良の息子の尋尊は、義尚の為政者としての資質に疑念を抱いており、義尚に理想の君主となるよう説く『樵談治要』を「犬の前で仏の教えを説くようなものだ」と皮肉っている。」(217ページ)
 文明13年(1481)正月、義政は隠居すると言い出したが、突然の引退表明だったために、周囲は困惑した。父親の当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、父親同様に年賀のあいさつを拒否して引きこもってしまうという異常事態となった。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。「ただし、関所を乱立させたり高利貸を営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられる政治体制ではなかった。」(218ページ) 文明14年(1482)7月に義政は正式に義尚に政務を委譲し、義尚の執政が開始された。とはいえ、義政はその後も幕府の最高権力者としての地位を維持し、義尚の権力を制約し続けたのである。

 大乱は終結したが、畠山義就のように幕府の権威に従わず、独自の行動をとり続ける武士がいる(というよりも、これからだんだん増えてくる)。寺社勢力は自分たちの権益を守るのに必死である。有力な大名たちは下剋上を恐れて領国に帰りはじめる。大名たちを抑えて自分の勢力を伸ばそうとする義政の努力は実らず、むしろ将軍の権威と権力は低下の一途をたどる。義政・日野富子・義尚とどうもすごい人たちばかりがそろった感じがあるが、彼らの個性ばかりに幕府の衰亡の原因を求めるべきではないだろう。『樵談治要』は『群書類従』に収められているそうなので、探して目を通してみようと思う。あるいはネットでも読めるかもしれない。
 今回は、『大乗院寺社雑事記』を通じて知られる尋尊の人間像や、戦国大名の先駆というべき畠山義就の個性など、呉座さんがこkの書物を書いていくうえで、大いに魅力を感じたであろう内容が含まれていて、読みごたえがあった。著者が史料をしっかりと読み込んで、その内容を整理していることが、この読みごたえを支えているように思われる。
 
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