『太平記』(149)

3月12日(日)晴れ

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方は比叡山延暦寺に落ち延びていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に都から撤退、2月6日に摂津手島河原の戦闘、7日には湊川一帯の戦闘で大敗し、足利尊氏・直義兄弟は大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちのびた。
 一方2月2日に、京に戻った後醍醐天皇は25日、建武の年号を延元に改めた。わずかな軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。尊氏が九州に落ち延びたのは、少弐入道妙恵(貞経)を当てにしてのことだったが、その少弐の居城である内山城は宮方の菊池武俊の攻撃を受けて落城、少弐の一族郎党の大半は戦死したのであった。

 少弐の城が落城したので、菊池の率いる軍勢はますます勢いを増して、尊氏の軍勢が留まっている多々良浜へと押し寄せた。尊氏は、香椎宮(福岡市東区香椎)から菊池の軍勢の様子を探ると、敵は4,5万騎もあるように思われ、味方はわずかに300余騎にすぎず、その大部分は馬にも乗らず、鎧兜も身に着けていないという状態であり、到底勝ち目はないと判断して、もはやこれまでと自害を決心する様子であった(尊氏という人は、すぐに前途を悲観して腹を切ろうとするところがある)。
 その様子を見た弟の直義が兄を堅く諫めて、次のように述べた。「合戦の勝負は、必ずしも軍勢の大小には左右されないことを思い起こしてほしい。漢の高祖が滎陽(けいよう)で楚の項羽の軍勢に包囲されたもののわずか28騎でかろうじて脱出して、最後は項羽の100万騎を破って天下を統一した例がある。わが国では源頼朝が石橋山の合戦で敗れて土肥の杉山の洞窟に隠れた時にはわずか7騎の武士が従うだけであったが、その後平家を滅ぼして征夷大将軍の位についた例もある。これらは天のあたえる運命を待って、眼前の事態に処した例である。敵は大軍ではあるが、味方も300余騎はそろっている。ここにいる武士たちは、今までわれわれに随行して、われわれの存亡の行方を終わりまで見届けようと思っている者達ばかりなので、一人も敵に後ろを見せる事は無いだろう。300騎の武士たちが、気持ちを一つにして戦えば、敵がいかに大軍であろうとも、退却させることができないとは言えないだろう。自害はひとまず思いとどまってほしい。直義がまず、先頭に立って一戦を試みるつもりである」。このようにいって、直義は香椎宮から出発していった(こういうときに必ず、直義が意見をして、尊氏を励ますのだが、実際に戦闘になると、尊氏の方が能力を発揮するのが皮肉である)。

 直義には足利一族の仁木義長、高一族の大高重成、南宗継、高師久(師直の弟)、高師冬(師直の養子)、尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟である上杉憲顕、足利一族の畠山国清、同じく細川顕氏(四国の兵を率いて活躍した細川定禅の兄)、大友氏泰、島津四郎(第10巻に登場する北条高時を裏切って宮方に降参した武士であろうか?)、曽我時助、白岩彦太郎、八木岡五郎左衛門、美濃の土岐一族の饗庭新左衛門といった武士たちが主だった面々で、総勢250騎、この軍勢で3万余騎の敵と戦おうという所存で、自分の命を塵芥のように軽く思う、その心のほどはあっぱれである。

 直義は、旗の先端を下げて戦闘態勢に入る様子を見せながら、香椎宮の社壇の前を通り過ぎたのであるが、その折に、烏が杉の葉を一枝くわえて、直義の兜の上に落とした。直義は、すぐに馬から降りて、これは神仏が我々を守ってくれるというめでたいしるしであると恭しく礼拝して、杉の葉を左側の鎧の袖に刺したのであった。
 両軍が近づいて、鬨の声を挙げようとするとき、敵の軍勢が圧倒的に多いのを見て、臆病風に吹かれたのであろうか、大高重成が、急に「それがしは、尊氏将軍のお側に控えている武士たちがあまりにも少ないので、身辺の警護に向かいます」といって、引き返して帰っていった。直義はこれを見て、そういうことならば、初めから将軍のもとに留まっていればよいのに、敵を見てから引き返すというのはその魂胆があまりにも見え透いている。やれやれ、大高の5尺6寸(約170センチ)の太刀を5尺(約150センチ)切り捨てて、剃刀にした方がましである(その剃刀で頭を丸めて坊主になれ)と笑いながら言い放つ。

 そうこうするうちに、菊池は、5千余騎の兵を率いて、多々良浜の西から近づいて、この頃の合戦では開始の合図として双方が鏑矢を射交わしていたのであるが、その鏑矢を射放つ。直義のほうでは、あえて返答の矢を射るなということで、そのまま鳴りを潜めていたのであるが、はるかかなたの雲の上から、誰がいたのかはわからない白羽の鏑矢が、敵の上を鳴り響いて、飛んでゆき、どこに落ちたかはわからないままであった。直義の率いる武士たちは、この様子を見て、これはただのことではない(神仏が我々の軍勢を守っているらしい)と頼もしく思ったので、勇気凛々、運を天に任せて戦闘に臨んだのである。

 両軍がにらみ合って、まだ戦闘を開始しないところに、菊池方から、誰とは知らず、抜け駆けをしてきた武士がいる。足利方の祖が左衛門、白岩彦太郎、八木岡五郎という3人の武士が、3人とも馬に乗らず、鎧兜も身につけないというありさまではあったが、太刀ばかりを頼りにして先頭に立っていたが、ちょうどいいカモがやってきたと思ったので、白岩がこの敵に走り向かって、飛びついて斬りつける。白岩が太刀を振り回したので、馬が驚いて左手へそれたところを、「してやったり」と鎧の先端を蹴り返した。白岩があまりに近くくまで寄っていたので、馬上の敵は太刀で斬りかかることができずに、腰の短刀を抜こうとしたが、鞍を馬に固定させる腹帯が延びていたのであろうか、鞍とともに逆さまになって落馬してしまった。白岩は落馬した敵の武士を抑え込んでその首をとる。馬が離れたところにいたのを、曽我左衛門が走り寄って、自分のものにする。死んだ武士が身につけていた鎧を、八木岡五郎が手に入れて、自分のものにする。白岩の手柄で、立派な武士が2人出来上がり、3人ともに敵の中に攻め入る。

 既に名前が出てきた仁木義長に加えて、山名時氏(以前から書いているが、山名氏は新田一族であり、新田義貞と行動をともにするものが多かったが、このように尊氏に従う者もいた)、宍戸朝重、岡部三郎左衛門宗綱、饗庭六郎らが、味方を見殺しにするな、続けと叫んで、3人に続き、大軍の中に駆け込み、乱戦を続ける。仁木は近づいてきた敵5騎を斬って落とし、6騎を負傷させ、さらに敵の中に踏みとどまって、斬りあいで曲がってしまった刀を左足で踏んづけて元に戻しては斬りあい、またまがったのを押しなおして切り結び、命の続く限りと戦い続ける。
 そうこうするうちに直義は、150騎の軍勢に魚鱗の陣形をとらせて、大軍の中に突っ込ませる。菊池の軍勢は兵員の数では100倍もあったのだが、時の運に見放されたのであろうか、前陣が戦っても、後陣が続かず、味方が劣勢になっても、力を合わせようとすることがない。足利方のわずかの軍勢に追い立てられて、一陣の5千余騎の軍勢は、多々良浜の遠浅の干潟を20町以上退却したのであった。(この時代の1町がどのくらいの距離であったのかははっきりしないが、1町≒100メートルと考えておけばよいのではないか)。

 菊池の軍勢の搦め手として加わっていた松浦、神田の武士たち(長崎県・佐賀県の武士たち)が、どうしたことであろうか、足利方の軍勢は300騎にも満たなかったのに、3万騎はあると錯覚し、すっかり怖気づいてしまって、一戦も交えずに、足利方に降伏してしまった。菊池はこの様子を見て、前途ますます多難であると判断し、足利方の主力との決戦を回避して、急いで本拠である肥後の国に引き返してしまった。

 存亡の際に追い詰められていた尊氏・直義兄弟であったが、決死の覚悟で戦ったことで、戦局を逆転することができた。これまでの経過を見ていても、将兵の大半はあまり戦意がなく戦局を傍観して、有利になった方に味方しようという例が多い。尊氏・直義の部下でも、大高重成のように兵力の差を見て臆病風に吹かれた武士がいたことを『太平記』の作者は書きとどめている。これが当時の武士のありのままの姿であったと考えた方がよいようである。尊氏・直義兄弟は九州で再起するという所期の目標を達成できるだろうか。それはまた次回。
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