呉座勇一『応仁の乱』(13)

3月10日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた大乱である。この書物は『経覚私要鈔』と『大乗院寺社雑事記』という同時代の2つの日記を史料として、この戦乱の全容の解明を試みるものである。すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では史料となる2つの日記が書かれた奈良の興福寺が事実上の支配者であった大和地方の状況と室町幕府との関係を、『経覚私要鈔』の筆者である経覚が将軍義教によって失脚させられるところまでを記している。
 第2章「応仁の乱への道」は大和に隣接する河内に本拠を持つ室町幕府の管領家である畠山氏の家督をめぐり、義就と政長との争いが続き、それが室町幕府の主導権をめぐる将軍義政の側近たち、山名宗全に近い人々、細川勝元に近い人々の争い、義政の弟である義視と子どもである義尚のどちらを将軍光景とするかの争いと絡み、複雑な様相を呈していったことが記される。畠山氏の家督をめぐる争いは衆徒・国民と呼ばれる大和地方の土着の武士的勢力を巻き込むものであった。
 第3章「大乱勃発」では畠山義就が山名宗全の支援の下に上洛し、政長を破った御霊合戦の後、応仁元年5月に政長を支持する細川派の巻き返しが始まり、大乱が勃発した次第が記されている。細川を盟主とする東軍は勝元、政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢らで構成され、将軍義政を確保して、山名方に先制攻撃を仕掛け、山名を盟主とする西軍は宗全、義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らで構成され、当初は劣勢であったが、中国地方の武士を率いた大内の到着により勢いを取り戻し、やがて義視を擁して西幕府を構成するようになる。戦乱は当初の両者の目論見に反して長期化したが、これは物見やぐらを築いたり、防御のための堀を掘ったりする戦法の変化によるものであり、戦乱は市街戦から、自分たちの補給路を確保し、敵の補給線を断とうという周辺地域での戦いへと拡大していった。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱によって興福寺が地方の荘園からの年貢の取り立てに苦しんだり、京都の公家たちが戦乱を避けて奈良に「疎開」してきた様子が記されている。経覚は武士を頼りにすることで年貢の取り立てを確保しようとしていたが、尋尊は慎重な態度をとり続けたという。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」では中世都市奈良で春日大社の「おん祭り」が中断せずに続けられるなど、大和地方は京都での戦乱にもかかわらず、比較的平和であったが、戦乱の長期化に伴い、後南朝の後裔が挙兵(これを西軍が支持)、西軍が大和に侵攻、また興福寺と縁の深い朝倉孝景が西軍から東軍に寝返るなど大和も戦乱に巻き込まれるようになった。

 今回は、第6章「大乱終結」の概要を紹介する。
 文明3年(1471)に京都では疱瘡が流行し、後土御門天皇や足利義尚まで巻き込んだ。同じ時期奈良でも疫病が流行したが、干ばつと戦乱のために食糧が不足し、人々の体力が奪われていたことがその理由であると考えられる。
 文明4年(1472)には細川勝元と山名宗全の間で和睦交渉が始まる。両軍ともに士気が低下し、厭戦気分が高まっていたことがその背景にあったと考えられる。この年の2月16日に、山名宗全は西軍諸将にそれぞれ使者を派遣し、東軍との和睦を提案した。しかし西軍では、畠山義就と大内政弘が和睦に反対した。義就は畠山氏の家督にこだわっていたし、大内は瀬戸内海の制海権をめぐって細川一門と利害が対立していたからである。東軍では山名氏と播磨・備前・美作の領有をめぐって戦い、優位に立っていた赤松政則が反対であった。

 3月に細川勝元は養嗣子であった勝之とともに隠居し、月に宗全は家督を孫の政豊に譲って、両軍の大将がともに引退してしまった。このことにより山名と細川の間のわだかまりは解消されたかもしれないが、正式な講和交渉が行われなかったために、諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はなおもだらだらと続くことになってしまった。
 西軍から東軍に寝返ったが、思わしい戦果を挙げられなかった朝倉孝景は、いったん主家を乗り越える下克上を断念し、東軍の斯波松王丸(義敏の子。後の義寛)を主君と仰ぐことにして、大義名分を獲得、西軍の甲斐方を破り、ついに越前を平定する。西軍の主要な輸送路は山名・大内に分国が多い山陰地方から日本海を渡って越前に入り、琵琶湖水運を利用して京都へと食料を運ぶものであり、このことによりそれが寸断され、西軍の兵站の維持が困難になった。
 また東軍の赤松政則が大山崎の天王山を抑えた。山陽地方の物資は瀬戸内海を通って大坂湾に入り、淀川を船で遡上して京都に運ばれていた。淀川流域の山崎が東軍の手に落ちたことにより西軍は瀬戸内海からの補給路も失った。さらに東軍の京極政経の重臣である多田高忠が、東国からの補給路の要地である近江を制圧した。西軍の土岐成頼の重臣である斎藤妙椿が南都か近江を奪回したものの、西軍の劣勢は明らかになってきた。
 
 文明5年(1473)3月18日に山名宗全が70歳で他界、5月11日には細川勝元も44歳の働き盛りで死去した。同年12月19日、足利義政は息子の義尚に将軍職を譲った。義尚はまだ9歳であり、実権は義政が握っていた。これは将軍の後継問題から義視を排除するもので、遠からず、西幕府を屈服させることができるという義政の自信の表れであると呉座さんは論じている。

 文明6年(1474)2月、講和交渉が再開されたが、東軍では赤松政則、西軍では畠山義就が反対した。4月3日に、山名政豊と細川政元の会談が実現し、和睦が成立した。しかし、西軍の大内政弘、畠山義就、畠山義統、土岐成頼、一色義直は和議に応じず、陣を解散しなかった。東軍の畠山政長、赤松政則も臨戦態勢を解かなかった。結局、和睦は山名・細川間だけのものとなり、西軍と東軍の和議には至らなかった。

 山名一族が東幕府に降伏したことで、西軍に主力は畠山義就・大内政弘に移行した。山名宗全と細川勝元という両軍の総帥が没し、山名・細川両氏の間で和議が成立したにもかかわらず大乱が続いたのは、あくまで畠山政長打倒を目指す畠山義就が反細川の大内政弘を巻き込んで徹底抗戦したからであると呉座さんは論じている。そして、「山名宗全の決起は、足利義政神性の打破を目的としていた。だが、山名一族降伏後の西軍は反細川の色彩を強めていく。ここに応仁の乱は新たな局面を迎えた」(191ページ)と大乱の性格が変化していったことを指摘している。

 この頃、西軍の中では美濃の守護である土岐成頼の重臣である斎藤妙椿の発言力が大きくなっていた。彼は応仁の乱が始まると、近江・伊勢・尾張などに侵攻し、その武名を轟かせていた。尋尊の『大乗院寺社雑事記』には東西両軍のどちらかが勝つかは、守護の家臣である妙椿の動向によって決まる。ありえないことであると反感を込めて記されている。尋尊の思惑がどうであれ、守護代層が応仁の乱のキーマンに成長していたことが記録の中に書きとどめられているのである。文明6年に衝突を起こした甲斐と朝倉を和睦させたように斎藤妙椿の存在は大きく、西軍は、彼の力で東部戦線を保つことができたが、妙椿にも上洛するほどの余裕はなかった。

 室町幕府は将軍足利義尚の伯父である日野勝光を通じて、終戦工作を模索するが、足利義視の処遇が決まらないこともあって、交渉は進展しなかった。越前が完全に東軍の支配下にはいり、西軍は一層不利に陥ったが、文明8年(1476)に日野勝光が死去し、終戦工作は暗礁に乗り上げた。
 この年の9月に、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た。政弘としても、10年近く領国を離れて京都で戦闘に加わっていたので、本国が心配になってきたのである。その後、講和交渉は日野勝光の妹で足利義政の正室である日野富子である。彼女は東西両軍に金を貸して戦乱の拡大を促したと悪く言う向きもあるが、それは当たらない、むしろ終戦に向けて努力していたのだと呉座さんは説いている。

 大内政弘が降伏すると、畠山義就は孤立することになる。そこで、先を見越して京都の陣を引き払い、政長の重臣遊佐長直が守る河内若江城へと向かった。ただし、義就撤退後も、西軍は京都の下京に布陣していた。取り残された形になる足利義視は斎藤妙椿に上洛を要請し、10月に斎藤が上洛する。しかし11月に大内が東幕府に降参する。同月、土岐成頼・畠山義統ら西軍の諸大名は自陣を焼き払って、それぞれ本国へ下った。こうして「西幕府はなし崩し的に解散し、応仁の乱は形の上では終わった」(198ページ)。行き所のない足利義視は土岐成頼とともに美濃に下ることになった。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたではなかったのだ」(199ページ)。

 「完全に消えたわけではなかった」戦乱の火種は、戦国時代へと燃え広がっていく。呉座さんも別のところで論じているように、応仁の乱を通じて守護代層が力をつけ、また朝倉孝景のように下剋上を企てるものもあらわれ、さらにこの後に出てくるように畠山義就は暴れ続けるなど、新しい力の台頭は確実にみられるので、「一人の勝者も生まなかった」というのはあまり適切な表現ではないようにも思う。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR