小学校教師ウィトゲンシュタイン

3月7日(火)晴れたり曇ったり

 オーストリアのウィーンで生まれ、分析哲学の発展に大きく貢献したルトヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、ドイツ、英国で工学を勉強したのち、数学の基礎に興味を持ち始め、ケンブリッジ大学のラッセルのもとで研究をするようになる。第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に志願兵として加わり、その間に書き溜めた原稿が有名な『論理哲学論考』となった。

 戦後、彼はトラテンバッハという山村で小学校の教師となる。この間の事情を藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』によってたどっていくと、彼は第一次世界大戦中にトルストイに心酔してロシアの農奴のように生きようと決意したこと、捕虜収容所でルトヴィヒ・ヘンゼルという教師と出会ったこと、さらに、第一次大戦後のオーストリアで展開されたオットー・グレッケルによる学校改革の動きに共鳴したことなどがその理由と考えられる。なお、グレッケルはルトヴィヒの姉マルガレーテの友人であったそうである。

 興味深いことに、1946年10月25日に真の哲学的問題はなにかという問題をめぐり、大喧嘩を演じることになった相手であるカール・ポパー(1902-1994)も小学校教師の資格を取得したり、グレッケルの改革に参加したりした一人だという。小河原誠『ポパー』によるとウィトゲンシュタインも、グレッケルの改革運動の理論的な支柱の1人であったカール・ビューラー(1879-1963)の心理学理論から大きな影響を受けていたという。
 ビューラーはカント哲学の影響を強く受けた心理学の一派であるヴュルツブルク学派に属し、フロイトの精神分析学と行動主義心理学の間の第三の道を、ゲシュタルト学説的な認知心理学あるいは発達心理学の方向に探ろうとしていた。
 彼の学説の中心にあるのは感覚印象よりも、それらを整え秩序づける考え/枠組みの方が優位にあるとの主張である。子どもが自分の周りにある対象、馬や人や蝶の絵を描くと、それはほとんどの場合実物とはかけ離れたものになる。ビューラーによると、それは子どもが対象を正確に観察する能力をもっていないからではなくて、自分がそうした対象についてもっている観念を紙面に実現したに過ぎないというのである。彼は「実は子どもは見えるものを描かないで、知っていることを描く」と定式化する。哲学的な言い方をすれば、感覚印象から出発して「観念」が構成されるのではなくて、「観念」(既に知っている事柄)が感覚印象を体系化しまとめ上げる原理となっているというのである。

 ビューラーはそこから子どもは規則的な繰り返しによって学ぶのではないと指摘する。「子どもを観察した人なら、規則正しくくりかえしておこることはたいてい子どもの思考をまったく刺激したり呼び起こしたりしないことを知っている。・・・知能は新しい、未聞の事態を解決するための道具」(原田茂訳『幼児の精神発達』協同出版、127ページ、小河原『ポパー』59ページに引用)であると彼は主張する。思考は反復的な事象から法則的なものを帰納するという形で生じているのではなく、積極的に、1回限りでしか生じないものであっても、ともかく問題状況にかかわり、テストに値する解を能動的に案出しようとする働きなのである。

 彼の学説では、観念は感覚的な印象から受動的かつ自動的につくられるのではなく、逆にそれらに先行するのである。そこで、この考え方楽甥苦に適用されると、子どもの知的な能動性を尊重せよという主張となり、ロック、ヒューム、ヘルバルト、そして当時流行の哲学であったマッハの学説とは対立することになる。
 この点を学校改革運動との関連でいえば、彼の心理学は、子どもの知的能動性を強調する心理学となる。ビューラーが描き出した「児童の精神発達」とそこから引き出される教育者への助言は、子どもをただ受け身の存在ととらえ、知的な能動性を認めない従来の心理学とそれに依存する教育学を根本的に批判するものであった。

 さて、それまでのオーストリアの教育制度は、1805年の勅令に基づいて敬虔にして善良かつ従順な労働者を育成するためのものであったと藤本氏は論じている。(グレッケルの改革を論じたE.パパネク『オーストリアの学校改革』によると、朝礼が出されたのは1804年のことである。) その理論的な支柱となっていたのは、ヘルバルトの教育哲学であり、「授業の方法はまず第一に記憶力を鍛錬するものでなくてはならず、…『学校授業法教本』に規定された説明以外の説明を行ってはならない」とされていた。
 これに対して第一次世界大戦後、児童生徒の自主的参加を促進する考えが一時的に取って代わる。ところが、この改革運動の実際の担い手となったのは当時の社会民主主義者たちであって、教育改革よりも旧体制改革の様相を呈することが多く、結局は農村地域からの反対に直面して、1934年以後改革は撤回されるに至るのである。

 1919年に30歳でウィーンの教員養成学校(Lehrerbildungsanstalt)に入学したウィトゲンシュタインは1920年に「小学校教師資格証明書」を取得、9月にトラテンバッハの小学校に臨時教員として着任する。その後、1922年に短期間ハスバッハ、その後1924年までプフベルク、1926年までオッタータールと各地の小学校で教えている。
 当時の学校改革のスローガンは「自主活動」(Selbsttatigkeit)であったが、自然観察や工場見学をさせて学習レポートを書かせるというような経験的な学習方法を奨励していた。ウィトゲンシュタインの教師としての指導方法は、これらのスローガンに準拠して工夫されたというよりも、むしろ彼自身の性格に合ったやり方だったと思われるが、結果的には当時の学校改革運動の意図に実にうまく適合するものであったと藤本氏は指摘している。

 彼がどのようにその教育を行ったか、その反響はどのようなものであったかは、また機会を見つけて書くことにする。この原稿のもとになった文章は19年前に書いたものであるが、今、読み直してみて、ビューラーの心理学の理論やウィトゲンシュタインの教育の方法など、子どもの認知発達と教育方法をめぐる興味深い問題を掘り下げていると思ったので、改めて発表する次第である。
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