『太平記』(148)

3月5日(日)晴れのち曇り

 建武3年(1336)正月27日、足利尊氏・直義兄弟の軍に都を追われ、比叡山延暦寺を拠点として犯行の機会をうかがっていた宮方の軍勢は、15日に続いて京に攻め入り、勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて、足利方の油断を誘い、30日に、足利方を京から攻め落とした。京から退却する途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に後醍醐天皇に対応するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちた。
 2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。

 一方、京都における数回の戦闘に敗れた足利尊氏は、2月13日に兵庫から船で九州に向かったのであるが、それでもまだ7千余騎の兵が従っていた。しかし備前の児島(現在の倉敷市児島)に到着した際に、「京都から討手が下ってきたら、三石(岡山県備前市三石)あたりで食い止めろ」と、一族の尾張左衛門佐(=斯波氏頼)に命じ、地元備前の武士である田井、飽浦、松田、内藤とともにこの地に留まらせた。さらに、細川定禅、その従兄弟の頼春はもともと四国から都に上ってきた武士なので、讃岐に残した。中国地方の武士たちも、尊氏一行に別れを告げて自分の本拠地に戻っていったので、筑前国多々良浜(福岡市東区多々良)の港に到着した時には、従う軍勢は500騎に満たない有様であった。

 これまでの戦いで矢種は射尽してしまい、兵庫から船に乗る際に馬は乗り捨て、鎧・兜などの武具は脱ぎ捨ててしまった。気力は弱り、軍勢の勢いも衰えていたので、「天涯望郷の鬼とならんずらんと、明日の命をも憑まねば、あぢきなく思はぬ人もなかりけり」(第2分冊492ページ、僻遠の地で故郷を慕う亡霊になるのではないかと、明日の運命も頼りにできないと、嘆かわしく思うものばかりであった)。どうにも情けない様子である。

 宗像神社の宮司である氏俊のもとから、使者がやってきて、今、いらっしゃる辺りは場所が狭くて、軍勢の宿にはならないので、恐れながら、自分の屋敷にお入りくださり、しばらくこの間のご窮屈な思いから解き放たれ、休息をおとりになって、くにぐにに将軍の命令書を出されて、軍勢を集められてはいかがでしょうかと言上する。それで、尊氏は、ただちに宮司の屋敷に向かった。

 翌日、少弐入道(=貞経、法号は妙恵)のもとに使いを立てて、頼りにしていると知らせると、妙恵は承知いたしました。私の命のある限りは、味方として忠義を尽くしましょうと言って、嫡子である少弐太郎頼尚に若武者300騎を率いさせて、将軍のもとに向かわせた。

 肥後の豪族である菊池掃部助武俊は、もとからの宮方で肥後国にいたが、少弐が足利方に味方するという情報を得て、途中で討伐して追い散らそうと思って、3千余騎の軍勢を率いて、水木の渡(福岡県太宰府市水城を流れる御笠川の渡し)へと向かった。少弐太郎はこれに気付かずに、小舟七艘に乗り込み、自分はまず対岸に着いた。

 少弐の主だった家来である阿瀬籠(あぜくら)豊前守はまだ渡らないで、渡し舟が戻ってくるのを待っていたところに、菊池の兵3千余騎が、三方から押し寄せて、少弐の軍勢を川の中に追い落とそうとした。まだ渡らずにいた阿瀬籠以下の150余騎は、とても逃れられないところである。退却したとしてもどこまで逃げられるだろうかと、玉砕を覚悟して、菊池の多数の軍勢の中にかけいって、一人も残らず戦死してしまった。少弐太郎は、川の向かいでこれを見たけれども、大きな川を中に隔てて、船に乗らないと渡ることができないので、なすすべもなく、これまで頼りにしていた一族郎党が、敵の手にかかって全滅していくのを見捨てて、尊氏の方に向かったのであった。

 菊池は、初戦に勝利したので、幸先がよいと思っい、その軍勢を率いて、少弐入道妙恵が立て籠もっているうち山城(太宰府市内山)に押し寄せた。妙恵は主戦力となる郎等を、みな子息の頼尚につけて、尊氏の方に向かわせていた。阿瀬籠豊前は、水木の渡で戦死してしまった。四郎に残る軍勢は、わずかに200人にも足りないので、菊池が大軍を率いて包囲してきたのに対し、合戦をしようにもできない状態である。しかし、城の要害がよかったので、切り立った崖の下に敵を見下ろして、数日間にわたって防戦を続けた。

 菊池は、前線で戦う兵を交代させながら、夜昼十方から攻めたが、城中の戦死者は少なく、矢種もまだ尽きていないので、攻め落とすのにはまだ4,5日はかかるかと思っていたのであるが、少弐入道の婿で原田対馬守という武士がいて、この人物がにわかに心変わりして、本丸を占拠し、新田の中黒の旗を掲げて、自分は考えるところがあり、宮方に味方することにした。同意いただけるやいなやと舅の妙恵入道のもとに使いを送る。妙恵はこれを聞いて、一言の返事もせず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」(第2分冊495ページ、 かりそめにも生きながらえて節義をなくすより、死んで名を残す方がよい)といって、持仏堂に走り入り、腹をかき切って倒れた。これを見て、少弐の家の子郎等162人、堂の前の大庭に並んで、一斉にえいと声を出して、一度に腹を切る。その声は天にまで響くかと思われた。

 妙恵の末子に宗応蔵主という禅僧がいたが、堂の蔀や引き戸を踏み破って、薪とし、父親の死骸を葬って、
  万里碧天月白く風清(すず)し
  為に問ふ恵公行脚の事
  白刃を踏翻して身を転じて行く
(第2分冊、496ページ、遥かな青空に月が白く風はさわやかである。父の恵公の死出の旅路に思いをいたし、私も白刃を踏み身を翻して父とともに行く)と静かに火葬の仏事をして、その炎の中に飛び入って、同じく死んでいったのである。

 尊氏は少弐妙恵を頼りにして九州に落ち延びてきたのだが、その少弐が菊池に討たれてしまった。前途多難な様相である。尊氏の武運はどのように展開するのであろうか、それはまた次回。
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