呉座勇一『応仁の乱』(12)

3月3日(金)朝のうちは晴れていたが、急に雲が多くなり、午後には雨が降り出した。

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は奈良興福寺大乗院の門主であり、興福寺の別当(寺務)を務めたこともある九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と、一条兼良の子である尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2人の僧侶の日記を史料として(その他の史料も使われている)、応仁の乱の全容とその影響について考察するものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では摂関家と関係の深い興福寺が事実上の守護であった大和という国の特殊性と、その中での衆徒・国民という独特の武装勢力の存在と、彼らの間の抗争、室町幕府との関係などが取り上げられている。ここでは親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立が軸になると説かれている。第2章「応仁の乱への道」では大和に隣接し、関係も深い河内を本拠とする畠山氏の内訌、義就と政長の対立、義就が越智と、政長が筒井と結びついていたことが述べられている。また当時の室町幕府の将軍であった義政の後継者をめぐり、実子の義尚を支持する伊勢貞親を中心とする義政の側近グループ、弟の義視を支持する山名宗全のグループ、中間的な細川勝元のグループの鼎立関係があり、文正の政変(1466)により細川・山名の連合に伊勢貞親が追放され、残ったのは山名と細川の2人となったことが記されている。第3章「大乱勃発」では、山名宗全の呼びかけによって上洛した義就が文正2年(1467)の御霊合戦で、幕府の管領であった政長を追い落とし、その後、政長を支持していた細川が将軍御所を包囲して、将軍から山名討伐の旗を与えられ、応仁元年(1467)5月に山名方との戦闘が始まった。細川・山名ともに短期決戦の戦略を描いていたが、この時代に起きた戦法の変化のために戦闘は長期化し、また味方の補給を確保し、敵の補給を遮断するために戦線が京都市内から市外へ、地方へと拡大していったことが語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦乱によって地方の荘園からの年貢の納入が困難になる状況での興福寺の苦闘と、京都から奈良へ「疎開」してきた一条兼良の家族の優雅な暮らしぶりについて述べている。

 前回は第5章の最初の部分を紹介し、「中世都市奈良」がどのように形成され、都市民たちがどのように生活していたかを、主として祝祭に焦点を当てながら描き出していた。
 文明元年(1469)7月末に、京都で東軍方として活躍していた筒井氏出身の成身院光宣が奈良に戻り、再び京都に向かおうとして体調を崩し、死去した。応仁の乱以前から畠山政長を支持して、支えてきた光宣の死の影響は、大和においては大きく、大和の東軍方は苦境に陥ることになる。
 長期化する戦局の打開を図るため、将軍足利義政と政所執事に返り咲いていた伊勢貞親は、西軍(山名方)の斯波義廉軍の指揮を執っていた朝倉孝景の切り崩しを図る。孝景は慎重な態度をとっていたが、文明3年(1471)5月に「後日、越前守護に任命する」という内諾を与えられて、東軍(細川方)に寝返った。

 一方、応仁の乱が長期化する中、南朝の皇子の末裔たちが混乱に乗じて動き出した。西軍は義視を将軍とする西幕府をつくってはいたが、義視は将軍の弟にすぎず、しかも御花園法皇から「朝敵」の烙印を押されていたため、大義名分の面で依然として東軍に劣っていた。そこで、南朝の後裔を天皇として推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対抗することをおもいついたのである。しかしこの構想には、足利義視をはじめとする反対者が少なくなかった。

 文明2年(1470)に西軍の大内政弘が南山城で攻勢をかけ、この地方を支配下におさめた。興福寺は大内勢の大和侵攻を避けようとする。西軍方の衆徒である古市胤栄にとっては有利な状況であったが、身内で起きた紛争のために動きが取れなくなっていた。呉座さんは胤栄の文化人的な性格が家臣たちからの反発を買っていたことが背後にあるのではないかと推測している。さらに、優柔不断な胤栄は、未曽有の大乱を前に、自分の進路を決めることができずに、経覚や大乗院国民と推測される山田宗朝に頼って、帰趨を決めようとしていた。
 文明7年(1475)に奈良へと進軍する大内政弘軍に呼応して、古市胤栄は越智勢らとともに出陣し、筒井氏出身の成身院順宣らの東軍方と戦うが、越智勢が戦おうとしなかったために惨敗を喫する。その結果、胤栄は家督を弟の澄胤に譲らざるを得なくなる。第4章で、胤栄が奈良で催していた豪壮な遊びについて紹介しながら、呉座さんは彼にとって「京都での戦乱は対岸の火事だったのだろう」(149ページ)と書いていたが、その火事が自分の身近にやってきたときに、胤栄の運命は急転したのである。

 呉座さんのこの書物は、かなりの評判を呼んでいて、18万部を売りつくしたそうである。戦国時代の武将の話題はかなり大きな興味を集めてきたが、戦国時代の発端となった応仁の乱についてはあまり関心が寄せられてこなかった。もし、戦国時代の歴史への関心の広がりと深まりとが、この大乱への関心を呼び覚ましたのならば、今後の歴史研究ともっと広い意味での歴史的な関心にとって好ましい結果を生みだすのではないかと思う。それから、この本を詳しく読んでいくと、さらに調べてみたいような事柄をいくつも発見するはずである。以前に書いたように、衆徒である筒井氏の家臣として登場する嶋氏は、関ヶ原の戦いで活躍した島左近を生んだ家柄であるし、この書物には出てこないが、柳生一族というのも国民であったらしい。それから、畠山義就と政長のそれぞれの性格・生涯と対立の様相を辿っていくのは、小説的な興味からも面白いことになりそうである。
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