ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(14-1)

3月2日(木)雨

 ベアトリーチェに導かれて、天空の世界へと旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に溺れた人々の魂と出会い、太陽天では神学者・哲学者だった人々の魂に迎えられた。ここではフランシスコ会とドメニコ会という2つの修道会が、教会を支えるべき存在であること、にもかかわらず、世俗の事柄にかかわって堕落している現状が嘆かれる。トマス・アクィナスの魂は、ソロモンについて「王者としての思慮深さ」では比類のない人物だと述べて、政治と神学は別の根拠を持つことを示唆する。

 神学者・哲学者たちは神を地上で見ようとした人々であり、ダンテを連れてやってきたベアトリーチェは神学の象徴であったから、彼女を「取り囲み、恋い焦がれて見とれ」(第10歌、158ページ)ていた。彼女とダンテを囲む輪の中にいたトマスが、その話を終えると、ベアトリーチェが口を開く。
「この者には必要なことがあり、それをまだあなた方に話してはいない。
声にもできず、いまだ考えてさえいないのですが、
つまりもう一つの真理の根源を訪れる必要があるのです。
(208-209ページ) それは死後の魂が最後の審判の後にどうなるかという疑問であり、それにこたえてやってほしいというのである。

まるで、時に輪舞の中の人々が
さらなる喜びに押されてそれに引かれて抗えず、
歌声をさらに張り上げて踊りを楽しむ、

それと同じように、間髪を入れぬ敬虔な祈りを受け、
聖なる二つの輪は、円舞と驚くべき歌に
新たな喜びを見せたのだった。
(210ページ) 神学者・哲学者たちの魂は二つの輪を作っていたのだが、ベアトリーチェのこの要請に喜んで答えようとする。

 そして、彼らの中から声が聞こえる。『神曲』の様々な注釈者たちは、この声がソロモンのものであるとしている。
・・・「天国の祝祭が
永続するほど、我らの愛も
それだけ永く我らを包むこの衣を輝かせる。

その輝きは炎の、
炎は視覚の表れである。そして視覚は、
魂の力に加えてさらに与えられる恩寵の分だけ鋭い。
(211-212ページ) 「炎」は神への愛の炎。「視覚」は神を見る精神の眼の力」、「恩寵」は神の恩寵。人間は、いかなる功績により力を増したとしても、独力では神を見ることができず、それに加わる「恩寵」により神を見るというのである。

栄光に満ちた聖なる肉体を
再びまとった時、我らの人格は
完全になるがゆえにいっそう喜ばれる。
(212ページ) 「栄光に満ちた聖なる肉体」は最後の審判の後に復活した肉体。肉体を再び獲得した死後の魂は、肉体と魂を持つ「完全」な「人格」となり、より神に喜ばれる。
 人間がより完全になれば、神の与える「恩寵」も増すので、その結果「輝き」も増す。一方、完全体になった肉体は、魂を閉じ込めていた生前の肉体と異なり、魂から発する光により輝き、そのために取り巻く光にかすむことはない。またそれら肉体はその光にも耐えられるので視力が失われることもない。

 高校時代に少しだけカトリックの教義についての教育を受けたことがあるので、このあたりの議論はなじみのないものではないが、肉体は滅びても、魂は滅びないというのではなくて、最後の審判の時に、肉体もまた復活するという考えに、肉体への強いこだわりを感じてしまう。そのようなこだわりが、どのような時代性、あるいは風土と結びつくのかということも考えてみたいと思う。
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