『太平記』(147)

2月26日(日)晴、温暖

 建武3年(1336)正月9日に、京都を守っていた新田義貞の軍が足利尊氏軍に敗退したために、後醍醐天皇は都を離れて比叡山に臨幸された。天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、中国・四国の兵を率いて三井寺に進出していた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利方を追い散らしたが、細川定禅の活躍で新田軍を追い戻した。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて足利方を油断させて、30日に総攻撃をかけ、京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちていった。

 1月30日に足利方の兵が都から敗走していったので、2月2日に後醍醐天皇は比叡山から京都に帰還されて、花山院を皇居にされた。この花山院というのは、もともと清和天皇の皇子であった貞保親王の邸宅で、なでしこや萩が多かったのでこの名がついたとのことで、冷泉天皇、花山上皇もここに住まわれたことがある。その後藤原道長の孫で関白になった藤原師実の次男家忠に始まる花山院家が伝領してきた。いまの京都御苑の中にあったとのことである。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が内裏を脱出して奈良に向かおうとされた際に、天皇に扮して比叡山に向かったのが花山院師賢であった(『太平記』では2巻にこのことが記されている)。

 2月13日に、手島河原、湊川の合戦に勝利した新田義貞が、朝敵である足利方を九州へと追いやり、降伏してきた武士たちに寛大な処分を行い、都に帰還してきた。その様子は、堂々として立派なものであった。足利方から降伏してきた1万余騎の武士たちは、もともと笠符(鎧の袖や兜につける、敵と味方を区別する布切れ)につけていた足利方の二引両(輪の中に二本の横線を引いた紋)の中の白いところを塗りつぶし、新田側の中黒(輪の中に太く黒い一の線を引いた紋)にしていたのであるが、墨の濃淡のために、元の足利の紋がはっきりとわかったからであろうか、翌日、五条辻(五条大路=現在の松原通と西洞院通が交差する辻)に高札を立てて、狂歌を書き付けたものがいた。
 二つ筋中の白みを塗り隠し新田新田(にたにた)しげの笠符かな
(第2分冊、484ページ、足利の紋の中の白いところを黒く塗り隠して、新田らしく見せかけた笠符であることよ。新田と似たをかけている。) 新田と足利がよく似た紋を持っているのは、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、強い方に従っている武士たちにとっては好都合であった。
 なお、余計な話を書くと、松平→徳川氏の紋は三つ葉葵であるが、松平一族が彼らの主張するように新田氏の一族である得川(世良田)教氏の子孫だとすると、中黒の紋でなければおかしいという意見がある。

この間、都の周辺で戦われた戦いの様子について、後醍醐天皇は大いに満足されて、すぐに臨時の除目(観を任ずる儀式)を行われ、義貞を左近衛中将(天皇を警護する左近衛府の次官。従四位相当)に叙せられ、その弟の義助を右衛門佐(内裏西側の門を警護する右衛門府の次官。従五位相当)に任じられた。

 天下の吉凶が必ずしも年号のために影響されるというわけではないのであるが、建武という年号には「武」という文字が含まれていて、物騒だという批判があったことから、2月25日に年号が改まって、延元となる。つい最近、朝廷が反乱軍のために危地に陥ったのであったが、間もなく平穏に戻り、天下がまた太平となったので、「この帝の徳は天地の真意にかなっている。今後はずっと、安泰であろう」と、臣下の者達は、いつの間にか危機的な状況を忘れて、自制心をなくしていったのは、その心映えにおいて愚かであったと『太平記』の作者は論じている。

 さて、天皇が都を捨て、比叡山に臨幸されるという大きな災いの異変が、もとに復して、天皇が行う天下の政務が新たに始められたので、その結果、いやな思いをする人、喜ぶ人が出てきた。特に賀茂社の神主職は神官の中でも重要な職務であり、恩賞として職に補すことには一定の順序があり、めったなことでは更迭されることはないのであるが、足利尊氏が松下貞久を解任して森基久を任命し、それが20日余りで宮方が都を回復すると、今度は貞久が復帰した。その後、大覚寺統と持明院統の治世が変化するたびに人事は転変した。
 その理由というのは基久に美しい娘があり、持明院統の後伏見法皇と大覚寺統の後醍醐天皇がまだ2人とも若かったころに、この娘を争った結果、後伏見法皇が勝ったという経緯があり、後醍醐天皇が基久を恨んで、自分が権力の座に就くと、解任したのであった。その後、何度も基久と貞久が入れ替わり、とうとう基久は世の無常を感じて出家したのであった。
 神主が出家するというのも奇妙な話だが、この時代の宗教観からすれば不思議な話ではなかったのである。例えば『方丈記』の著者である鴨長明も神主の職をめぐるいざこざから出家したのである。後醍醐天皇の京都復帰に関連して、この話が取り上げられているのは、『太平記』の作者が天皇の政治に必ずしも賛同していなかったことを示しているようである。そして物語は、九州へと敗走していった尊氏のその後の様子に焦点を移す。
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No title

先日、院生時代に小林標先生のラテン語のテキストを使ったのを思い出し、検索すると貴殿のブログに行きあたりました。

それ以来、貴殿のブログを読んでいます。
たまたまですが、明日、琵琶湖に1泊旅行をします。
丁度、三井寺に行こうと思っていたので
参考になりました。

ありがとうございます。

Re: No title

コメントをありがとうございます。小林標さんとは同じ時期に、同じ大学で過ごしたはずですが、全く面識がありません。ただ、著書は何冊か読んでおります。特に中公新書に入っている『ローマ喜劇』が印象に残っています。

琵琶湖、三井寺の印象はいかがだったでしょうか。機会がありましたら、お聞かせください。(私は、滋賀県生まれなので、琵琶湖には特に愛着があります。)

今後ともよろしく。

No title

コメント返し、ありがとうございます。
私のラテン語の先生は、大西先生ですが、
小林標さんと同期のはずです。

同時期だとしたら、大西先生、ご存知ないですか?
ここでは、言いませんが、どこの大学かわかります。

三井寺は、琵琶湖ホテルに1泊して
ホテルの人に聞いて、地図をもらって、
歩いていきましたが、入り口で聞いたら
中に入ったら、1時間はかかると言われ
しんどくなって、帰ってきました。

途中、テレビで、三田村邦彦が「うまい!」
と言っていた、平井商店を何とか見つけ、
あれと同じ酒を下さいと言って、購入。

楽しい旅でした。

次回は、早めに行って
三井寺の中に入るつもりです。
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