日記抄(2月19日~25日)

2月25日(土)晴れ、温暖

 2月19日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
2月19日
 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』は”The Louvre"(ルーブル美術館)を話題として取り上げた。この美術館を2日間回ったが、まだまだ見ていないものがたくさんあるという見学者の談話の形をとっている。
It's the world's largest museum and I'm feeling it. (世界最大級の美術館というけれども、まさにそれを骨身にしみて感じているところだ。) もともとは16世紀から17世紀にかけてフランスの王たちの宮殿として使われた建物で、王族がヴェルサイユに居を移したのちに、王家の持つ美術品の一部が収められる場所になり、フランス革命後に美術館となった。ナポレオンに代表されるフランスの海外への軍事行動の結果として収蔵品が急増したという。大英博物館についても同じようなことが言える。
 ジャン=リュック・ゴダール監督の『はなればなれに』という映画の中で、アメリカ人のグループがこの美術館を駆け抜ける記録を作ったというニュースを聞いて、アンナ・カリーナと(二枚目の)サミー・フレーと(ピエール・ブラッスールの二代目の)クロード・ブラッスールの3人がその記録に挑戦するという場面がある。面白いとは思うけれども、真似はしたくない。

2月20日
 この日のブログで宇野信夫『江戸おとし咄夜の客』の中の「春を待つ雪」と、三遊亭圓生『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』所収の「雪の瀬川」という2つの人情話を取り上げた。『圓生人情噺』の監修者でもある宇野信夫は、昭和4年(1929)に大学を卒業したのち、(「大学は出たけれど」という就職難の時代であったことも手伝って)、就職もしないまま文筆の道に進もうとしていた。幸い(うらやましいような話だが)、埼玉県で事業を営んでいる父親の出張所が橋場にあったので、そこに住み、その家についている2軒の貸家の家賃で生活していた。
 ふとしたきっかけで蝶花楼馬の助という落語家と知り合い、それから、その仲間の売れない落語家たちが宇野の橋場の家にやってくるようになった。宇野ができることは、貸家の一つである蕎麦屋から天ぷらそばをとってごちそうすることくらいだったが、それでも彼らは宇野の家をたまり場のようにしていた。そのあたりの事情は宇野の『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』(河出文庫)に記されている。
 よくやってくる4人、馬の助、柳家甚語楼、春風亭柳楽、桂文都のために何かしようと思って、寄席を借りて「新進四人会」という会を開いたが、やってきたのは老人が3人だけで、その3人も途中で帰ってしまった。噺家達も、宇野もがっかりしたのは言うまでもない。「私はこれに懲りて、噺家の興行はあきらめてしまったが、夜風の眼にしみるこの年の瀬の晩のことがなつかしく、いまだに忘れることが出来ない。それというのが、いろどりのない、じじjむさい私の青春の、せめて小さい冒険の夜だったからかも知れない。/それはとも角も、私がこの噺家達から学んだことは、自分の業を楽しむということ、逆境を苦にしないこと、自分の生活を客観視することであった。この人達とつきあうようになってから、少しづつ私の胸はひらけ、大げさにいえば人生観がちがってきた。この人達は私の一生の恩人である」(45-46ページ)。
 甚語楼は5代目の古今亭志ん生、柳楽は8代目の三笑亭可楽、4人の中には入っていないが、よくやってきた1人である桂米丸は5代目の古今亭今輔となった。好き嫌いはあるだろうが、名人の域に達していたと評価してよい落語家たちである。馬の助は8代目の金原亭馬生を継いだが、昭和18年(1943)に48歳で早世した。「『馬の助は惜しい噺家だ。長生きをすれば貴重な芸人になっていたのに』/そんなことを、六代目圓生がいっていた。/林家正蔵(彦六)もそういっているのをきいたことがある」(23ページ)。そして、文都は9代目土橋亭里う馬となって、昭和43年(1968)まで生きていたが、「もともと彼は噺家という素質のない人であった。噺のまずい代わりに、演劇――ことに歌舞伎には明るかった」(145ページ)と宇野は評している。劇作家として名を成した人のいうことだから、本当に明るかったのであろう。そして、極め付きの奇人であったようである。彼らの芸と人生から宇野が多くのものを学び取ったことは容易に推測できる。

2月21日
 『朝日』に連載されている夏目漱石『吾輩は猫である』はいよいよ終わりに近くなって、寒月が旧制高校在学時にヴァイオリンを買った話に差し掛かった。寒月が在学していたのは、はっきりとどこの学校とは記されていないが、漱石が教師として教え、寒月のモデルとされる寺田寅彦が学んだ第五高等学校と考えられる。「天下の五高」という自称がこの時代にあったかどうかはわからないが、「剛毅朴訥は仁に近し」という言葉をモットーとして、蛮カラな校風で知られた学校である。ヴァイオリンを弾くなどというと、ほかの生徒からどんな扱いをされるか分かったものではない。「中には沈殿党などと号していつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ」と寒月はいう。
 ここで注目すべき点がいくつかある。私が知る限りでは、旧制高校では2年続けて落第はできない、続けて落第すると「凱旋」といって退学処分を受けたという話である。「いつまでもクラスの底に溜まって」いることが果たして可能であったかどうか、あったとすればいつごろに制度が変わったのか調べてみる価値はありそうである。もう1つは「クラス」という英語が使われていることで、この時代、この言い方が一般的であったのか、漱石が英語の先生だったからこの言い方をしたのか、これも気になるところである。それから柔道は、まだ嘉納治五郎によって創始されたばかりの時期で、これまた、この言い方の中に漱石と嘉納の関係を推測してもいいのか、想像の膨らむところである。

2月22日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Casual Dress Revolution"(カジュアルドレス革命)という新しいビニェットに入った。
A company's dress code reflects its corporate culture and the image it wants to project.(企業の服装規定は、企業文化とその企業が打ち出したいイメージを反映するものである)という。舞台となっている企業では、
The basic concept is that we want to move with the time and be casual -- but not too casual. (基本的な考え方は、わが社は時代の流れに沿ってカジュアルでありたい、ただし、カジュアルすぎない、ということである) どのようにバランスをとるかが問題となるようである。

 鈴木清順監督がなくなられた。93歳。『朝日』の追悼記事に載っていた松原智恵子さんの談話:「賭場のふすまが倒れると背景が真っ赤に変わったり、監督の映画には、演じていても意味の分からないことが多かったです」。磯田勉編『清順スタイル』の中でも松原さんは同じようなことを言っている。「スタッフも言ってましたよ、『どういう風につながるのか、監督にしかわからない。』」 それでも松原さんが出演していた『関東無宿』、古くは『影なき声』、『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』、『刺青一代』などは好きな作品である。代表作の一つとされる『けんかえれじい』は新藤兼人の脚本による作品だが、最後の方で北一輝が出てくるのは、鈴木監督の独創だそうである。嫌いではないが、鈴木隆の原作の方が私は好きで、新藤の脚本がどのような展開になっていたのかも気になるところである。山村聰監督の『黒い潮』のチーフ助監督(鈴木清太郎名義)であったことも気になっている。死亡記事では触れられていなかったが、鎌倉アカデミアの卒業生の1人である。謹んでご冥福をお祈りする。

2月23日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の「カジュアルドレス革命」の続き:
We've been seeing a relaxation of dress codes at kinds of companies. Some people call the look "business casual" -- smart and well-groomed, but not stuffy and formal. (あらゆる業種の会社で服装規定が緩和されるようになってきた。中には、そうした装いを「ビジネスカジュアル」と呼ぶ人がいる。つまり、洗練され、きちんとした身なりで、でも古風でかた苦しいものではないという意味である。)

2月24日
 「実践ビジネス英語」の「カジュアルドレス革命」の続き:
Some companies have done away with dress codes altogether.(中には、服装規定を完全に廃止した会社もある。)それらの会社は、社員が快適に感じるときに、彼らの生産性と創造性が高まると考えているというのである。
Some managers also see a casual dress code as a way of attracting talented young workers. (カジュアルな服装規定を、有能な若い働き手を惹きつける方策と見なす経営者もいる。) この発言を受けて、別の話者が
I know that kind of policy is more accepted in places like Silicon Valley or Madison Avenue.(シリコンバレーやマディソン街といったところでは、そのような方針の方が一般的であることを知っていますよ)という。
 Madison Avenueはニューヨークのマンハッタンを南北に貫く通りで、かつては大手広告会社が数多くあり、そのことからアメリカの広告業界の俗称となったという。私が電通の下請けの会社でアルバイトをしていたころ、電通に出かけるときはスーツを着てネクタイをしていないと入れてもらえないと言われたことを思い出し、日米の違いを考えさせられた。

2月25日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Rudyard Kipling"(ラドヤード・キプリング)を話題として取り上げた。『ジャングル・ブック』などの作品で知られるノーベル賞受賞作家である。
He has come under fire for representing British imperialism -- and all the racism associated with it -- but his work can also be read as an ironic comment on imperialism. (イギリスの帝国主義――さらに、それに付随する人種差別主義――の権化として批判を受けるようになったけれども、キプリングの作品は帝国主義への皮肉なコメントとしても読める)という。
East is East, West is West, and never the twain shall meet. (東は東、西は西、この二つが会う日はないだろう。) という彼の有名な詩があるが、彼自身の作品の中で両者が出会っているのではないかと語り手は結んでいる。キプリングはインドで生まれ育ち、後にジャーナリストで活動した時期があるが、中国や日本については知らないはずで、彼の「西」、「東」という認識が限界をもっていたことも指摘されてよいだろう。もっとも、知らない世界が少なからずあるというのは(私を含めて)多くの人間に共通することではないかとも思う。  
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No title

最近は、KINDLEで小説を読むようにしていて、AMAZONから漱石の全作品をまとめたものをダウンロードしました。そして、改めて『吾輩は猫である』を読みました。寒月のモデルは寺田寅彦氏でしたか。なるほど。

ルーブルの収蔵品の多さは、そのとおりだと思います。たまたま大聖年のときに、ローマへの巡礼のついでにルーブルにも立ち寄りました。そのとき、 大好きなカルロ・ドルチの名作を見ました。国宝の『悲しみの聖母』など足元にも及ばない傑作が展示されていましたが、たまたま企画展があったからのようです。そうでもなければ、長期間お蔵入り。もったいない話です。

Re: No title

コメントをありがとうございました。秋田旅行はいかがだったでしょうか。朝倉邸の記事と写真を興味深く拝見。ここの主人だった朝倉さんは越前朝倉氏と関係があるのか、ないのか、気になるところです。

寺田寅彦が『猫』の寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルだというのは昔から言われてきたことですが、最近では昨年の10~12月に放送されたNHKカルチャーラジオ「漱石、近代科学と出会う」で詳しく論じられていました。『猫』の登場人物は、苦沙弥の学生時代に同じ下宿で暮らした仲間(迷亭、独仙、鈴木の藤さん・・・)と、元教え子(寒月、三平)に大別できる(東風だけが例外)というのが面白いところではないかと思います。なお、苦沙弥の生徒で、金田の郷里の出身ということになっている津木ピン助が杉敏介、福地きしゃごが菊池寿人という、一高の中で漱石と仲が悪かった教師の名前を少し変えて使っているというのも昔から言われてきたことです。創作というのは、無から生じるものではなく、作者の何らかの経験が反映するものですから、モデル問題が付きまとうのは仕方のないことではないかと思います。

ローマへの巡礼、ルーブル見学、余裕のある暮らしぶりがうかがわれてうらやましい限りです。カトリック信者ではないので、ローマへの巡礼をしようとは思いませんが、サンティアゴ巡礼には興味があります。大英博物館には何回も出かけているのですが、ルーブルについては日本で展示があったのを見に出かけただけです。
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