呉座勇一『応仁の乱』(11)

2月24日(金)曇りのち晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間にわたって展開された大乱である。この書物は戦乱の同時代人であった奈良興福寺大乗院の門主で興福寺別当も務めた九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と一条家出身の尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という日記を史料として、戦乱の実態と意義に迫ろうとするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて大和が摂関家と結びつきの強い興福寺の支配する地方であり、武装した僧侶である衆徒や、藤原氏の氏神を祀る春日社の神人である国民のような独特の武装勢力が抗争を続けていたこと、その幕府との関係などを概観している。第2章「応仁の乱への道」は室町幕府とその有力大名たちの家督の継承をめぐる内訌、とくに幕府の管領家の1つである畠山氏の家督をめぐる義就と政長の対立が将軍の後継をめぐる幕府の要人たちの間の対立と絡み合いながら展開していく様子を、応仁の乱の前史として描き出している。第3章「大乱勃発」では、畠山義就と政長の京都市内における対決から、義就を支持する山名宗全と政長を支持する細川勝元の対立が戦乱にいたり、お互いに短期に決着を図ろうと考えていたにもかかわらず、戦闘が長期化し、戦線が地方へと拡大していった様相が語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱の中での経覚と尋尊のとった立場や彼らの働き、とくに戦乱によって地方の荘園からの年貢の取り立てが困難になったことへの対処、尋尊の親族である一条家の人々が奈良に「疎開」してきてどのように過ごしたかなどが述べられている。

 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、まず、この時代の奈良がどのような都市で、どのような人々が住んでいたのかから話を進めている。奈良は「南都」とも呼ばれたが、奈良の寺社が摂関家に近く、平氏に反対する立場をとったために治承4年(1180)平氏による焼き討ちを受ける。その中で大乗院も焼けて、大乗院の門主はその後、唯一焼け残った禅定院を居所とする。中世都市奈良は、この焼き討ち後の復興の中から生まれてくる。
 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として7つの郷を設置した。戦国時代の文献はこれらを「南都七郷」と称している。郷には寺社に所属する僧侶のほか、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼らは「郷民」と呼ばれた。郷民は興福寺や東大寺、春日社など、南都の寺社のどれかに所属し、寺社から身分とそれに伴う特権を与えられ、その見返りとして寺社に対して役を負担していた。そのほかに南都七郷は興福寺から役を課されていた。(役というのは今日の税金に相当し、物納であったり、労役の提供であったりしたようである。) とはいうものの、彼らの意向は都市の支配者にとって無視しがたいものであった。

 今日まで続く春日若宮祭礼、いわゆる「おん祭り」について、呉座さんは興福寺との関係を強調する安田次郎の説を支持しながら、この時代におけるその意義を論じている。おん祭りには興福寺の僧侶だけでなく、衆徒・国民も参加し、その挙行に際しては、大和の国の東西南北の境に結界が張られ、大和の国全体が聖域とされた。「おん祭りは大和一国を挙げての大規模な祭礼であり、興福寺による大和支配を象徴するものであった」(155ページ)。それだけでなく、応仁の乱の最中にも毎年欠かさず開催された。
 その重要な行事の一つは流鏑馬で、衆徒・国民によって独占されるようになり、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がローテーションを組んで務めるようになり、さらに後になると、流鏑馬の射手ではなくて願主人(幹事)を務めるようになった。
 国民(坊人)の中で古市氏は六党のどれにも所属せず、武士的な性格よりも僧侶的な性格の強い家であったが、古市胤仙の時代になって、経覚の権威を利用しながら武士的な性格を強めてきた。

 盂蘭盆は仏教の主要な行事の一つで、霊前にお供え物をして、お経を読んだり念仏を唱えたりしていたのが、15世紀になると、念仏風流と呼ばれるものが全国各地で行われるようになった。これは念仏とさまざまな出し物を組み合わせた行事で、その中心になるのは念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」であった。他にも「造り物」を駆使した華やかな仮装行列や、素人の相撲・猿楽・獅子舞などが行われた。しかし、その開放的な気分の中で、人々が興奮し、喧嘩などのトラブルが発生しやすかったので、奈良では禁止令が出されていた。

 古市では風呂が盛んにたかれていたが、文明元年(1469)に風呂釜が壊れ、大金が必要になった。胤仙の跡を継いだ胤栄は奈良で念仏風流禁止令が出ていたことに乗じて、小屋を仮設し、その中で踊れるようにして入場料をとった。この興行は大成功で、風呂釜の修理費用を賄うに足りる収入が得られたらしいと呉座さんは推測している。「そもそも風呂釜じたいが娯楽施設であり、応仁の乱の最中に大金を投じて風呂釜を修理するという発想は、普通の人間には出てこない」(159ページ)と呉座さんは古市胤栄の性格についても論評を加えている。

 戦乱の中の都市住民の暮らしぶりを描くというのがこの章のねらいであったはずであるが、奈良が戦乱に巻き込まれることはあまりなかったこと、叙述の焦点が祭礼に宛てられていることから、むしろ祭礼の中で発散される民衆のエネルギーの方に興味がわく。むかし、戦乱で中断した祇園祭を再興しようとする町衆たちの姿を描いた『祇園祭』という映画を見たことなど思い出すのだが、奈良の「おん祭り」が戦乱のさなかでも中断しなかったというのは印象に残る。こういう祭礼の様子を読んでいると、ホイジンガの『中世の秋』の中の祭礼の描写などと比べてみたいという気持ちも起きる。
 歌舞伎の源流とされる阿国歌舞伎が念仏踊りを中心にしたものであることなど、念仏風流の中には現在まで姿を変えながらも伝わっている様々な芸能の要素が含まれているようである。そのあたりも注目してよいだろう。
 なお、念仏というと南無阿弥陀仏と唱える唱名念仏、静座して仏の姿を念じ思い浮かべる観想念仏、仏の本質の理を観じる実相念仏があるのだが、この時代には(現在と同様)念仏といえば、唱名念仏という通念ができていたようである。
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