など品川といふやらん

2月22日(水)曇り、寒し

 海辺をばなどしな川といふやらん
というのは、『東海道中膝栗毛』の初編で北八とともに伊勢参りの旅に出かけた弥二郎兵衛が品川に通りかかって、海辺なのになぜ川というのだろうと、問いかけた前句である。これに対して、北八は
 さればさみづのあるにまかせて
と返す。真水(さみず)があるから川といっても不思議はないというのである。鮫洲(今の品川区大井鮫洲町)と真水とをかけている。

 弥次喜多の時代には忘れられていたようであるが、目黒川の河口付近を品川といった。河口には港が設けられていて、品物が運び込まれたり、出されたりした。だから品川というのである。

 江戸時代、江戸から地方に向かう五街道の最初の宿場が4か所に設けられていた。これを四宿といい、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)である。中でも東海道の最初の宿場である品川はにぎわった。気を付けていいのは、現在のJR(と京浜急行)の品川駅は、本来の品川宿よりも北の、港区高輪に設けられていることである。だから、京浜急行の北品川の駅が、品川駅の南にあるという珍妙な事態が生じた。

 天正18年(1590)に江戸に移った徳川家康は、今川氏真の屋敷を品川に設けさせた。それまで家康がいた静岡では、氏真が家康のところにしょっちゅう押しかけてきて長々と昔話をするので、辟易していた家康が、千代田城から遠くに住まわせたという話である。それで、氏真の次男の高久は品川を姓として名乗るようになった。本家である今川氏と、分家の品川氏はともに江戸幕府の高家旗本の家柄となったのである。

 今川氏真は義元の嫡子で、桶狭間の戦いで義元が戦死したのち、武田、そして徳川の攻撃を受けて没落する。昔読んだ漫画のなかの織田信長と徳川家康の清州の会盟の場面で、家康が信長に「今川の家は氏真が後を継いだけど、この氏真がアホなの」といっているのを覚えているが、氏真がアホというのは結果論である。武田信玄を困らせようと甲州に塩を送らせないようにしたのは氏真であり、小和田哲男さんも書いているが、氏真はそれなりの政治的な手腕は持っていたようである。
 中村真一郎は、家康の正室であった築山殿と嫡男・信康が死に至る事件に巻き込まれて、家康のもとを去った武将である山内通綱の子孫であるということから、1971年に『旅』に連載した古寺探訪の中で、築山殿の墓所のある西来院(浜松市)と信康の廟がある清瀧寺(天竜市)を訪問している。その中で、築山殿について「この駿河御前と呼ばれた今川家の血を引く女性は、従兄の氏真同様、室町文明によって育った、自由奔放な女性で、教養も趣味もはるかに家康より高級だった」(中公文庫版『古寺発掘』、96ページ)と書いている。築山殿の本名が分かっていないのは一つの謎であり、そのことが彼女の不幸を際立たせている――というのはさておいて、氏真は和歌を能くし、蹴鞠にいたっては名人級で、蹴鞠の家柄である飛鳥井家の当主から武士にしておくのはもったいないとほめられたという。要するに室町的な教養人・趣味人であった氏真と現実的な戦国武将であった家康は性格的に合わなかったのであろう。しかし、家康は朝廷や貴族との交渉のための使節として氏真の才能を活かして使い、氏真はその使命を果たしながら生き延びたのである。そういう意味では、氏真はアホではない。

 今川氏真のおかげで話が横道にそれすぎた。こういう話ばかりしていたので氏真は家康に嫌がられたのであろうか⁉ 
 海近くして東海寺(遠かいじ)とはいかに
 大軍を率いて将軍(小軍)というがごとし
というのは、家康の孫である家光と、品川の東海寺の住職であった沢庵の間に交わされたという問答。
 現在は、埋め立てにより、海岸線が遠くなっているが、昔は街道と宿場のすぐ近くに海が広がっていたのである。
そうでないと、『膝栗毛』の弥二さん喜多さんの連句も、落語の「品川心中」の海に飛び込んで心中しようとする場面もわからない。もっとも、落語のその後を聴けばわかるとおり、品川の海は遠浅だったから、死のうとしても死ねないのである。

 明治時代の終わりごろに、出羽の海部屋に入門してきた新弟子が、巡業に出ていた力士衆に合流しようと先輩力士に付き添われて汽車に乗って品川までやってくる。そして、東京湾を見て(昔は汽車の窓から海が見えたのである)、ここはどこだと聞くと、品川だという答えに、大きな川だなぁと感嘆したという。この新弟子が後の大横綱栃木山(→春日野親方)であった。私が子どものころに、栃木山の春日野親方はまだ健在で、相撲雑誌の対談でこの話の真偽を尋ねられて、同行していた力士が言いふらした話で、彼は話がうまかったからなぁと受け流していたと記憶する。たぶん、それに類したことを言ったのが、尾ひれを着けて言いふらされたということらしい。

 栃木山の春日野親方、その弟子の栃錦の春日野親方はなくなり、その次の栃の海の春日野親方は健在だが親方を定年で退き、栃乃和歌の春日野親方の時代になっている。明治が遠くなっているように、品川の海岸線も遠くなっているようである。
 
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