『太平記』(146)

2月19日(日)晴れ、温暖

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけ、細川定禅の率いる中国・四国の兵たちを寺に入れた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利軍は大敗したが、細川定禅の活躍で宮方を撤退させた。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけた宮方は、30日、油断した足利方を京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。

 京都から丹波路を落ちていった尊氏であるが、味方の主だった軍勢が兵庫の湊川に集結しているという知らせを受けて、湊川に到着した。これまで規制を失っていた軍勢が、気力を取り戻して、あちこちから集まってきて、間もなくその軍勢は20万騎に達した。この軍勢ですぐに京都へと攻め上れが、宮方の軍勢は京都を支えることができないはずであったが、湊川の宿に特に何をすることもなく3日もとどまっていたために、抑えとして八幡に残しておいた甲斐源氏の武田信武は、敵の中に孤立して支えきることができず、宮方に降伏してしまった。もともと新田方に属していて、大渡・山崎の合戦で降伏して足利方になっていた宇都宮公綱も足利方の反攻を待ちきれずに、新田方に戻ったので、宮方の軍勢はますます大勢になって、龍や虎のような威勢をふるう様子であった。

 2月5日、顕家卿、義貞朝臣は10万余騎を率いて京都を出発し、その日、摂津の国の芥川に到着した。この知らせを聞いた尊氏は、そうであれば道中で迎え撃てと弟の足利直義に16万の軍勢を率いさせて、京都へと向かわせた。

 そうこうするうちに、両軍の軍勢は思いがけずも2月6日の巳の刻(午前10時ごろ)に、手島河原(箕面川の豊島河原)で遭遇した。互いに旗を進めて、東西に陣を張り、南北に軍勢を配置した。北畠顕家がまず2度攻め寄せ、有利に戦いを進められなかったので退却し、続いて宇都宮が、新田方への忠節の証を示そうと200余騎を率いて攻勢に出る。これまた戦死者を出して後退したので、入れ代わって義貞の弟の脇屋義助が2,000余騎で攻め寄せる。足利方では足利一族の仁木、細川、畠山の各氏と家老の高一族が、前日の敗北の恥をすすごうと、命を捨てて戦う。宮方では新田一族の江田、大館、里見、鳥山がここを突破されればもう後に引く場所はないと命を顧みずに防戦に努める。このようにお互いに必死に戦ったのであるが、ついに勝敗の決着がつかないまま、その日の戦闘は終わった。

 楠正成は、宮方の主力から遅れて京都を出発したのであるが、合戦の様子を観察して、ひそかに自分の率いる700余騎を神尾(かんのお、兵庫県西宮市甲山町の真言宗寺院神呪=かんのう寺、甲山大師)の北の山から回らせて、目を凝らしても見えないような暗闇の中で、夜襲をかけた。(他本は、「神尾」を「神崎」と記しているようである。だとすると尼崎市の神崎になる。) 直義の率いる足利方の軍勢は、昼間の合戦が一日中続いたので疲れているうえに、急に背後から夜襲をかけられ、慌てふためいて、一戦も戦わず、兵庫を目指して退却していく。義貞は、これを追って西宮に進み、直義は味方の軍勢を立て直しながら、湊川に戻って陣を構える。

 同じ2月7日の朝、凪いだ海を見渡すと、はるか沖の方から大きな船が500艘、追い風を帆に受けて近づいてきた。どちらに味方する軍勢であろうかとみているほどに、200余騎は、舵を取り直して、兵庫の島に漕ぎ入れた。残る300余艘は、帆を張ったままにして西宮に漕ぎ寄せた。これは豊後(大分県)の大友、長門(山口県西部)の厚東、周防(山口県東部)の大内らが足利方に加勢しようとしてやってきたのと、伊予(愛媛県)の土居、得能が宮方にはせ参じようとしてやってきたのと、これまでは方向が同じなので、一緒だったのが、今日は二手に分かれて、それぞれが味方しようとする方に向かったということである。

 両軍ともに、まだ戦っていない新しい軍勢が到着したので、お互いに兵を進めて、小清水(兵庫県西宮市越水町)で向かい合う。足利方は数において勝る大軍ではあったが、これまで戦ってきた兵は、新手の軍勢に戦わせようと、戦う様子を見せない。大友、厚東はまた、必ずしも自分たちだけの重要な合戦ではないと思っていたので、それほど勇み立つ様子もない。宮方はというと、比べてみるほどのこともない小勢であったが、これまで戦ってきた兵は、他人事の合戦ではない、我が身の存亡にかかわることだと思い、新たに加わった土井、得能は、今日の合戦でふがいない戦をしては、(土井・得能を含む)河野一族の名折れになると、競い立っている。ということで、両軍がまだ戦わないうちから、結果の兆しは両軍の気勢に現れ、勝敗は何となく見えているように思われた。

 そうはいっても、新手の軍勢の決まりとして、大友、厚東、大内らの軍勢2,000余騎が足利方の先頭で進んだ。土居、得能はこれを見て、彼らとの戦いは他に譲れない自分たちの仕事だと、3,000余騎の軍勢を前面に並べて、矢を1筋ずつ射交わす時間もないほど急に、一斉に刀を抜いて攻め入る。大友、厚東、大内は一太刀切り結ぶと、さっと左右へ分れてしまった。土居、得能はそのまま敵の後ろの方まで駆け抜けて、直義が控えていた湊川に迫っていく。「葉武者どもに目な懸けそ。大将に組め」(第2分冊、481ページ、雑兵どもを相手にするな。大将に取り組め)と指示して、風のごとく散り、雲のごとく集まり、鬨の声をあげて懸け入り、懸け入っては戦い、千騎が一騎になるまでも退却するなど、互いに声を交わして戦い続けたので、直義は、これでは敵わないと思ったのであろうか、また兵庫を指して退却していった。

 何度戦っても、味方の軍勢がはかばかしい戦果をあげないという様子を見て、これはどうもだめだと思ったのであろうか、尊氏も、気力が屈した様子であった。そこへ豊後からやってきた大友貞宗が現われ、現在の状態では有利な合戦ができるとは思われません。我々が昨日やってきたのは、そうなるべき(九州へといったん退却すべき)運だと思われます。幸いに船も多くありますので、九州へと退却なさいませ。九州の有力大名である少弐貞経が味方なので、九州の武士たちはそれに追随してくるでしょう。そうして軍勢を多く集めれば、すぐに大軍を動員して、京都を攻めて攻略するのは簡単になるでしょうといったので、尊氏も納得して、すぐに大友の船に乗り込んだ。

 書軍勢はこれを見て、将軍が船に乗り込んで落ち延びようとされていると騒ぎ立て、とるものもとりあえず、乗り遅れまいと慌てて船に駆け寄る。船はわずかに300余艘であり、乗ろうとする兵は20万騎を越えている。1艘に1,000人ばかりが乗り込んだ船はその重さで沈んでしまい、乗っていたものは1人も助からない。残った船は、これを見て、それほどは人を乗せまいと、纜を解いて舟をこぎだしてしまう。乗り遅れたる兵たちは、武具や衣装を脱ぎ捨てて泳いで船に乗り込もうとするが、船の上からそれを発ち、なあ義なたで切り殺し、払い落とす。結局、乗り込むことができず、浜辺に帰った者は、自害をして、その死骸が波に揺られることになった。

 尊氏は、かつて平家が一時都を築こうとした福原冴えも支えきれず、船の上から渚を照らす月と、海岸に寄せる波に涙を添えて傷心の想いにふけりながら、筑紫へと落ちてゆく。義貞は、勝利の手柄を立てて、降参した数万人の武士たちを引き連れ、都に帰っていく。悲しみと喜びがたちまち所を変えて、現実も夢のようである。

 楠正成が足利直義の軍勢を奇襲で破るところなど、義経が福原の平家を奇襲で破る場面を思い出させる。尊氏が福原を離れる場面の描写も、『平家』を意識した筆致である。
 とにかくこれまで、足利方は数の上では優勢なのだが、士気が上がらず、宮方は数においては劣勢だが、士気が高いという状態が続いている。しかし、それ以上にこの時代の特色を表しているのは、その時々で有利な方に従いながら、保身を図っていくそのほか大勢の武士たちではないかと思う。さて、足利方が去った後、京都はどうなっていくのか、それはまた次回。
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