呉座勇一『応仁の乱』(10)

2月17日(金)晴れ、風が強い

 応仁の乱は応仁元年(1467)年から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は大乱の経緯を同時代に奈良の興福寺大乗院の院主であった経覚の『経覚私要鈔』と彼と入れ替わって院主を務めた尋尊の『大乗院寺社雑事記』の2人の高僧が残した2篇の日記を史料とし、この時代の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかを探ろうとする。
 興福寺のある大和に隣接する河内の守護であった畠山氏では義就と政長とが家督を争っており、幕府の管領であった細川勝元の支持を得た政長が家督と認められ、管領の地位にも就いたが、河内に根強い支持基盤を持ち、大和の南部の大乗院方国民である越智氏の援助も受けていた義就が上洛、将軍義政に迫って家督を奪い返したことで、義就の背後にいる幕府の実力者山名宗全と、政長の背後にいるもう1人の実力者細川勝元との対立が深まり、応仁元年に戦闘が開始された。宗全と勝元とは、将軍義政の後継争いに巻き込まれた形ともなり、この当時に起きた戦法の変化と相まって、彼らの所期に反して戦闘は長期化し、初めは京都市内における市街戦であったのが、市内への補給路の確保・遮断をめぐる戦いへと拡散していった。
 このような戦乱の結果、地方の荘園からの年貢の納入が滞ることもあって興福寺の経営状態は困難になり、75歳の経覚に4度目の別当(寺務)への就任が要請された。経覚は朝倉孝景らの武士の協力を得ながら荘園支配の改革を進めようとするが、なかなかうまくいかなかった。

 呉座さんは経覚と尋尊が対照的な性格の持ち主だった、「一言で表すなら、経覚は能動的、尋尊は受動的である」(136ページ)という。従来の研究は早くから活字化されていた『大乗院寺社雑事記』を利用することが多く、その記主である尋尊に対しては貴族の出身で戦乱を傍観者的で冷ややかな目で見ているという批判的な見解が強かった。しかし、経覚の『経覚私要鈔』が活字化されてみると、同じく貴族の出身であった経覚が興福寺をめぐる様々な事態に積極的に取り組む姿勢を見せていること、にもかかわらずその結果が必ずしも良いものではなかったことがわかるとも論じられている。
 「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある。…興福寺や大乗院にしてみれば、武士たちに振り回されている不満はあっただろう。
 その点、尋尊は常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録にあたり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する。その態度はひどく消極的に見えるが、大乗院が曲がりなりにも大乱を切り抜けることができたのは、門主である尋尊の慎重さのおかげだろう」(138-139ページ)

 興福寺の経営をめぐってだけでなく、尋尊の後継者への教育をめぐっても、経覚と尋尊とは対立した。九条家出身の経覚、一条家出身の尋尊に続いて、大乗院は二条家から政覚を迎えることになる。政覚は尋尊の弟子ということになるので、その教育について経覚が口を出すのが不快であったようである。尋尊は自分の例に従って政覚が修学し、盛大な法会を催すことによってその権威を確立することを望み、そのために苦労に苦労を重ねて段銭を集めている。とにかく、興福寺の存在、その儀式や祭礼を滞りなく行うことへの執着が大和をこの戦乱にあまり巻き込まれることなしに乗り切らせたのであった。

 尋尊の父は学者としても有名な一条兼良であったが、彼は一条室町にある邸宅から、戦火を避けて息子の厳宝が門主を務めている九条の随心院に移っていた。また彼の家族は尋尊を頼って奈良に逃れていた。その後、一条室町の邸宅は、文庫桃華坊とともに焼けてしまい(貴族の書庫が焼けるということが文化遺産の継承の中で持つ意味を考えてほしい)、九条付近も安全とは言えなくなったので、応仁2年(1468)年8月に、彼は奈良に移り住むことになった。彼は関白であったから都を離れるわけにはいかないはずであるが、この頃になると朝廷も開店休業状態であったのである。

 「尋尊は兼良たちの住まいとして、大乗院配下の院家である成就院を提供した。兼良の一族・奉公人は大人数であり、しかも居候だからつつましい生活をするという発想は最上級貴族である兼良にはない。彼らの膨大な生活費を賄うために、尋尊は借金をしたり、大乗院領に段銭をかけたりした。」(144ページ) 「尋尊の経済力に支えられた兼良一家の疎開生活は、在京時の生活にひけをとらぬほど優雅で快適だった。」(145ページ) ほかの有力な貴族たちも奈良に疎開していたので、遊び相手に事欠かなかったのである。
 まず連歌で、当時随一の文学者でもある一条兼良は成就院で頻繁に連歌会を開いた。「応仁の乱が始まる前、京都で生活する摂関家の人々と奈良興福寺の僧侶たちが一緒に連歌を行う機会はめったになかっただろう。応仁の乱が期せずして生みだした文化交流は、双方に刺激を与えたと思われる。」(同上) 〔これは文学史の方から確かめてみる必要がありそうだ。〕
 さらに宴会、新猿楽の興行、林間(本来は「淋汗」で基本的に風呂饗応であるが、酒茶での接待などが伴う)など様々な趣向が紹介されている。「応仁の乱のまっただ中に、このような豪壮な遊びが行われていた事実には驚かされる」(149ページ)と著者は記している。これもまた、戦時の社会の一部ではあったが、大寺院の高僧や疎開してきた上級貴族はさておいて、大和の衆徒・国民はどのような日々を過ごしていたのか、それはまた次回で取り上げることになる。 
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