黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』

2月14日(火)晴れ、雲がだんだん多くなってきている

 黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川文庫)を読み終える。2011年に『戦国関東の覇権戦争――北条市VS関東管領・上杉氏55年の戦い』として洋泉社から発行された著書を、改題し、文庫化したものである。

 「京の将軍、鎌倉の副将、武威衰えて偏執し、世は戦国となりしころ」というのは馬琴の『南総里見八犬伝』の書き出し(うろ覚えなので、記憶違いがあるかもしれない)であるが、この書物はその「鎌倉の副将」とその管領(執事)の地位をめぐって関東で展開された戦闘の経緯をたどるものである。「まえがき」で著者は述べている:「戦国時代は、関東の享徳の乱(1455-82)に始まり、小田原合戦(1590)と続く奥羽での反乱鎮圧(1591)にいたる、およそ150年にわたった。戦国時代の始まりも終わりも、実は関東の動向が基準になっていたかたちになる」(8ページ)。

 著者は続けて、「このことは関東が、京都を中心とした政治世界とは異なる、独自の政治動向を展開していたことを示している」(同上)という。従来の戦国時代史研究は天下一統という最終的な結果から戦国時代をとらえ、「天下人」の政治的な動きに焦点を当てるものであった。しかし、それは実情とは異なるのではないかという。「列島の各地域では、それまでの100年以上におよんで、独自の動向を展開していたのである。そしてその動向こそが、結果的に地域を統合するような戦国大名を作り出し、ひいては天下一統をもたらすことになる。信長・秀吉はその動向に乗っかっただけにすぎない。/むしろ戦国時代における変化を見るためには、最終盤になって登場してきた信長や秀吉ではなく、それ以外の地域における動向を見ていくことによってこそ知ることができる」(9ページ)といい、室町時代の政治秩序とは異なる戦国時代独自の論理が展開されるようになって、戦国大名の率いる領域国家が構築される過程に目を向けるべきであるという。
 「関東における室町的政治秩序の最たるものが、鎌倉公方・関東管領という存在であった。…その関東管領という地位についていたのが上杉氏である。上杉氏こそ、関東における室町的な政治秩序を体現する存在であったといっていい」(同上)。
 ところが15世紀の末に関東政界に他国から伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が進出してくる。伊勢氏は2代目の氏綱の時に北条氏に改称し、上杉との抗争を展開していく。そして3代目の氏泰の時に関東上杉氏を没落させ、上杉氏に取って代わる。しかし、その直後から、それに対抗して関東に進出してきたのが、上杉謙信であった。こうして、北条氏と上杉氏との関東紙背をめぐる抗争は、天正6年(1578)の謙信の死去まで続いていく。
 北条・上杉の抗争の「当初はまだまだ室町的秩序が根強かったが、その天界の中で、次第に戦国時代独自の論理の展開、すなわち領域国家が展開していくようになる。それとともに、甲斐武田氏が関東政界に参加したり、北条氏に対抗する勢力や謙信や武田氏を関東政界に呼び込み、やがては常陸佐竹氏を中心に関東自前の政治勢力を形成していくなど、政治構造そのものが変質していくことになる」(10ページ)。

 「まえがき」に続く「プロローグ 「日本の副将軍」対「関東の副将軍」-―北条氏への改称と関東管領家の誇り」では、関東に進出した伊勢氏が「日本の副将軍」であった鎌倉幕府の執権北条氏の後継者であることを主張し、関東の支配者としての正統性を主張しようとしたことが語られている。
 第1章「北条氏綱と両上杉氏の抗争」は関東公方が古河公方と小弓公方の両家に、その管領の地位を世襲してきた上杉氏が山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂して抗争を続ける中で、北条氏綱がその勢力を拡張していく過程がたどられている。
 第2章「北条氏康と両上杉氏の滅亡・没落」では氏康が扇谷上杉氏を滅亡させ、山内上杉氏を越後に追い(その結果、越後の国主であった長尾景虎が上杉氏の家督を継いで、上杉謙信となる)、関東管領の地位を築き、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と三国同盟を成立させたことが述べられている。
 第3章「上杉謙信はなぜ関東に襲来したのか?」では、関東管領の地位は上杉氏のものであると主張する謙信が関東地方に存在していた反北条の国衆たちを結集しながら、関東地方に侵入し、小田原を脅かしたことが述べられている。謙信の関東遠征は、越後が雪に覆われている冬に行われているという注目すべき指摘が含まれている。
 第4章「「国衆」が左右する関東戦国史」では、戦国大名の勢力範囲の中に独立的に存在する小領主である国衆の動向が戦国大名たちの動きに影響力を持っていたことが語られている。
 第5章「国衆を困惑させた越相同盟」では永禄11(1568)年に甲相駿の三国同盟を破棄して、武田信玄が駿河の今川氏真を攻撃し、その結果として北条氏は上杉氏と接近し、同盟を図った次第が語られる。この過程で、これまで上杉氏と同盟することが多かった関東の佐竹氏、里見氏は自立路線を選択することになる。
 第6章「信玄の猛攻と北条氏の危機」、第7章「北関東の攻防戦と謙信の死」は章題が内容を語りつくしている。天正6(1578)年に死去するまで「関東の副将軍」山内上杉氏の家督を継ぐものとして、関東経略に情熱を燃やし続けてきた謙信の死は、「北条対上杉」の抗争に終止符を打つものであった。
 エピローグ「消滅した『関東の副将軍』――新たな構想の枠組みへ」では謙信死後の関東における戦闘と政治の動きが語られている。関東地方の反北条勢力は対抗のための新しい装置として常陸佐竹氏を盟主とする「東方衆一統勢力」を結成する。武田勝頼は佐竹氏と、北条氏政は徳川家康と同盟する。氏政はさらに織田信長にも使者を派遣し、他方佐竹氏ものぶながとのせっしょくをはかる。
 「このようにして、関東の政治世界ににわかに中央政権の影が色濃く落ちるようになった。この後において、北条氏も佐竹方も中央政権の存在を強く意識し、それとの関係をつねに考えざるを得なくなっていく。もはや関東の戦乱であるからといって、関東の論理だけで進めることはできなくなっていくのである。ここにいたって、関東の戦乱は「北条対上杉」という関東支配の正当性をめぐる枠組みから、中央政権による天下一統の過程とリンクした新たな段階に入っていった」(220-221ページ)。

 戦国時代、特にこの時代にに活躍した武将たちの人気が高いのは、彼らの多くがローカルな、それゆえに身近な存在であるからであろう。この書物の前半では北条氏綱・氏康父子、後半では上杉謙信の活躍が目立つ。しかし、そうした有名武将だけでなく、「国衆」と呼ばれるより小規模な領主たちの姿にもしっかりと目が向けられている。
 各地の城砦を拠点とした武将たちの動きが詳しく述べられているが、そうした城の跡は比較的身近に見出すことができる。私の従兄弟が小机城址の近くに住んでいて、あれは誰の城だったのかと質問されて、答えられなかった(この城は、城主だった人よりも、城を攻撃した人の方が有名である=例えば、太田道灌)ことがあるが、戦国時代の歴史はたとえその一部であっても、我々の身近なところで探し当てることができる。この本は、関東地方に住んでいない人にとっては、他人事の事実が書き記されているかもしれないが、そう思ったならば、自分の身近なところでの戦国時代の歴史を自分の足で探ってみるべきである。この本には、そういう探索の手掛かりとなるような事柄も含まれているので、他人事だと決めつけないで読んでほしいと思うのである。
 もちろん、そのようなローカルな戦国は、やがて天下人の手によって一つにまとめられていくのであるが、そうやって最終的に成立した幕藩体制と、戦国時代の領域国家の支配体制の違いについて、戦国時代に特有の存在であった「国衆」を手掛かりとして考えることの有効性をこの書物は示唆しているのである。 
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