『太平記』(145)

2月12日(日)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は京都の西郊まで追い立てられて、3度も切腹の準備をしたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。そして楠正成の謀で、いったん都から撤退した。足利方を油断させて徹底的な打撃を与えようというのである。そうとは知らず、宮方の軍が撤退したので、敗走していた足利方は、また都に戻った。

 比叡山に戻った楠正成は、次の朝に、2,3人のものを選んで律僧の姿にさせ、京都へと送り込んだ。この当時、律宗の僧は、時衆の僧と同様に、葬礼に従事していたのである。律宗の僧に成りすました者達は、ここかしこの戦場で、死骸を探し回った。足利勢の武士たちが怪しんで、その理由を尋ねると、僧たちは、悲しみの涙を抑えながら、昨日の合戦で、新田義貞様、北畠中納言様、楠正成様以下、宮方の主な大将が7人も戦死されたので、供養のためにその死骸を探しているのですと答えた。
 足利尊氏をはじめ、足利家の執事である高家、外戚である上杉家の人々は、これを聞いて、「どうも不思議な話だ。敵の主だった大将たちが一度に戦死してしまったとは。それだからこそ、勝ち戦であったのに、宮方の兵たちは都から撤退したのだな。大将たちの首はどこかにあるだろう。探し出して獄門にかけ、都大路でさらし者にしよう」と、敵味方の死骸を探し回ったが、それと思しき首は見つからない〔もともと、戦死したというのが嘘だから、見つかるはずはないのである〕。
 そこで、何とか首がほしいと思うのあまり、少しばかり似ていると思われる首を2つ、獄門の木にかけて、新田義貞、楠正成とそのそばに書き付けた。京都には憎らしい皮肉屋が何人もいたのだが、そのうちの誰であろうか、これを見て、その札のそばに「これはにた頸なり。正成にも書きたる虚事(そらごと)かな」(第2分冊、472ページ、これは新田義貞に似た首である。正しげ(本当らしく)書いた嘘である」と秀句(たくみな洒落の句)を書き付けたのであった。

 さらに楠は、同じ日の夜半ばかりに、従者たちにたいまつを2千か3千ほど灯させて、大原、鞍馬の方に向かわせた。京都からもその様子が見えて、どうやら比叡山の敵は、大将が戦死したので、今夜みなあちこちに落ち延びていくらしいと判断して、将軍にその旨を報告する。尊氏もその通りだと思ったのであろうか、それであれば敵の兵たちが落ちのびないように、方々に軍勢を向かわせろと命じる。そこで、鞍馬路に3千余騎、大原に5千余騎、勢田へ1万騎、宇治は3千余騎、右京の嵯峨、仁和寺の方面までも敵を討ち漏らさないように千騎、二千騎と兵を派遣して、兵力が派遣されていない方面はないほどに分散して配置した。ということで、京都市内に残っている兵力は大きく減り、残っている兵たちもそれほど用心をしてはいない様子であった。

 そうこうしている間に、宮方の兵たちは、明け方から比叡山から修学院の方角に向かう西坂を下りて、八瀬、藪里(左京区一乗寺の辺り)、鷺森(左京区修学院の鷺森神社)、下松(左京区一乗寺下り松町)に陣を取り、大将たちが皆一手に固まって、30日の卯の刻(午前6時ごろ)に二条河原に押し寄せて、あちこちに火をかけて、鬨の声をあげた。
 京都市内に残っていた兵たちはこの襲撃に慌てふためいた。もともと全軍がそろっていた時でさえ、劣勢になって退却させられた宮方の軍の来襲である。しかも、味方の軍勢のかなりの部分を各方面に分遣して、兵力は手薄になっている。敵が攻めて来るとは夢にも思っていなかったので、その狼狽ぶりは普通以上のものである。西北の丹波路の方角をめがけて逃げていくものもあり、あるいは西南の山崎方面に逃げるものもいた。中にはただ生き延びようという気持ちだけで、頭を丸めて僧侶の姿になる者もいた。宮方の軍は深追いを避けたのだが、後ろについて逃げてきている味方の軍を敵が追いかけているものと錯覚して桂川とその周辺でもはやこれまでと自害してしまったもの数知れず。それだけではない、乗り捨てられた馬があちこち走り回り、脱ぎ捨てられた鎧・兜などの武具が散乱して足の踏み場もない。

 足利尊氏は、その日、3年前に反鎌倉幕府の挙兵をした丹波の篠村を過ぎて、曾地(兵庫県篠山市曾地)の内藤三郎左衛門入道道勝の館に落ち着いた。その一方、細川定禅の率いる四国の武士たちは、山崎を過ぎて、摂津の芥川(大阪府高槻市芥川町)に到着した。
 親子兄弟、骨肉主従、互いにどこへ逃げたかを知らずに落ちのびてきたので、戦死したものを生きているかもしれないと期待をつなぎ、生きているものを戦死してしまったのだろうと嘆き悲しむ。とはいえ、将軍(足利尊氏)は無事でいて、追分の宿(京都府亀岡市追分町)を通過されたというはっきりとした情報が伝わってきたので、兵庫港川(神戸市兵庫区湊川町)に落ち延びていた軍勢の中から、急いで摂津の国に起こしください。軍勢を再結集して、やがて京都に攻め上ることにしましょうと連絡をしたので、2月2日、尊氏は曾地を発ち、摂津の国に向かったのであった。

 丹波から摂津に向かおうとするとき、尊氏は随行していた薬師丸という童子(のちに道有と名乗り、熊野山の別当となる)に次のように密命を下した。「今度の京都の合戦で、味方が戦うたびに敗北したのは、戦い方が拙かったからではない。よくよく事の核心を考えてみると、尊氏が朝敵であるということのために、味方の士気が奮い立たなかったのが原因である。それで、何とかして(もともと武家方に心を寄せられている持明院統の)光厳院様から院宣を頂いて、この戦いを大覚寺統と持明院統の帝と帝の戦いと名分を改め、合戦をしようと思う。貴殿(薬師丸)は日野中納言殿(日野資明)の顔見知りであるということなので、これから京都に帰って、(日野中納言を通じて)光厳院の院宣を頂くように取り計らってほしい」というのである。薬師丸は承諾して、三草山(兵庫県加東市)から尊氏一行と別れ、ただちに都に戻っていく。

 楠正成の計略に見事に引っかかって大敗を喫する足利方の軍勢の無様な姿が滑稽に描かれている。とくに偽首の話がおかしい。正成の偽情報を信じてしまったのは不覚というよりほかない。信じたいという願望が働いたのかもしれない。今度は、足利方は都から全面的に撤退を余儀なくされる。
 しかし、尊氏もやられっぱなしではない。自軍の敗因を冷静に分析して、持明院統の皇族・貴族たちと同盟し、再起を図ろうと次の手を打っている。(本来ならば、都を占領した時に持明院統の皇族と接触したかったのは、14巻19に語られているが、この時は持明院統の皇族とその側近の貴族はすべて比叡山に上ってしまっていたのである。) 今回足利方の敗北により、比叡山から皇族・貴族がまた都に戻ってきたので、かえって尊氏に好機が訪れたともいえる。建武2年(1335)に西園寺公宗の陰謀が失敗し、中先代の乱も鎮圧されたので、鎌倉幕府寄りであった持明院方は、新しい同盟者を探していた。しかも尊氏が接触を図っているのはこの派の一番の切れ者といってよい日野(柳原)資明である。これまでのところ、戦局は宮方有利で推移しているが、新しい動きが芽生え始めている。
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