呉座勇一『応仁の乱』(9)

2月10日(金)昼頃からみぞれが降り続いている

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。文安6年(1449)に14歳で元服し、征夷大将軍になった足利義政の周辺には、伊勢貞親を中心とする側近グループ、それと対立する山名宗全らのグループ、中立的な細川勝元を中心とするグループがあった。文正元年(1466)に伊勢貞親が自派に有利な人事を行おうとすると、山名と細川が共闘して伊勢貞親らを追放する(文正の政変)。これに少し遅れて上洛した畠山義就は、一族の政長との家督争いに敗れて都から離れていたのであるが、文正2年(1467)優勢な軍事力を背景に義政を威圧し、政長から家督を奪回する。政長は細川勝元の支援を受けて、これに対抗しようとするが、山名宗全の加勢を受けた義就に敗れる(御霊合戦)。
 応仁元年(1467)5月に細川方の反攻が始まり、将軍御所を包囲した細川勝元は山名宗全を討伐することを認められる。細川勝元の率いる東軍には畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢らが、山名宗全の西軍には畠山義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが属していた。
 東軍は兵力においても大義名分においても西軍に勝っていたが、決定的な勝利を収めることができず、大内政弘が入京して西軍に加わったことで戦局が一変し、10月の相国寺合戦で勝敗がつかなかったことから戦線は膠着した。この合戦で将軍御所が攻撃を受けたことで態度を硬化させた義政は、後花園法皇に要請して山名宗全治罰の院宣を受ける。応仁2年(1468)11月に、義政の許から脱出した彼の弟の義視が西軍の陣営に入り、西幕府が成立、和平の可能性はさらに遠のく。
 両軍ともに短期決戦で決着をつけようとした戦いが長期化したのは、両軍がそれぞれの陣を堀や井楼で防御して、防御側有利の状況が作り出されていたことによる。このため、自軍の補給路の確保と、敵軍の補給路の遮断に戦闘の重点が移っていった。これらの戦いで足軽と呼ばれる新しい兵力が活躍するようになった。

 お話変わって、舞台は奈良の興福寺に戻る。応仁3年(1469)、まだ大乱が続く中、2月上に興福寺別当(寺務)の東門院孝祐が辞意を表明し、後任人事が問題になった。戦乱で興福寺の諸荘園から年貢が入ってこない状態では、経営に責任が持てないと興福寺の院主たちが辞退する中、75歳でこれまで既に3度にわたって別当を務めてきた経覚に就任が依頼された。彼は常に困難な時期に寺務を頼まれてきたという実績がある。しかし、彼は一貫して西軍よりの態度を取り続けてきた。将軍義政の妻である日野富子の兄で、南都伝奏(朝廷と奈良の東大寺・興福寺の間の連絡・調整にあたる任務)であった日野勝光にとって、このことは好都合とは言えないが、背に腹は代えられなかったものと推測される。経覚は固辞するが、朝廷の方では勝手に彼を別当に任命してしまう。親分肌の経覚は熱心に頼まれると断れなかったようであると呉座さんは推測している。彼は大乗院の院主であった尋尊にも協力を要請し、尋尊もそのことを約束する。4月20日に藤氏長者の一条兼良から任命状が届く(兼良は尋尊の実父である)。

 寺務に就任した経覚がすぐさま取り組んだ課題が興福寺の経営再建である。興福寺は多くの荘園をもっていたが、大部分は代官にその経営を任せきりにしていて、現地の状況はわからないことが多かった。ところが戦乱の拡大の結果、荘園から年貢が入らないことが多くなった。そこで、代官による支配ではない、領主の直轄支配(直務=じきむ)を、実現しようとし、就任にあたってそのための援助を幕府に依頼したのである。しかし多くの荘園でこの試みは成功しない。「天下大乱という最悪の外部環境の前には、経覚の粉骨砕身も無力だったのである」(130ページ)

 興福寺大乗院にとっての重要な収入源の1つが越前にある荘園であった。応仁の乱以前からこの荘園を越前の武士である朝倉孝景が侵略していたが、経覚の奔走により和解が成立し、年貢が収められるようになっていた。朝倉の主君は斯波義廉であるが、彼が義敏と家督をめぐって争っていたのはすでに述べたとおりである。この争いの結果、越前からの年貢が滞り始めたので、経覚は義廉と孝景の援助を求めた。ところが、越前の状況は東軍に属していた義敏の方に有利になり、孝景は京都を離れて越前に向かうことになった。越前の荘園の代官として経覚は自分の側近の楠葉元次を推し、大乗院の学侶たちの反対を受けるが、朝倉孝景との連携で実現にこぎつける。
 「荘園領主にとって有力武士との提携は諸刃の剣である。百姓を弾圧したり外部勢力の侵略をしたりするうえでは有用だが、獅子身中の虫にもなりかねない。武士を積極的に利用しようとする経覚と、なるべく距離をとろうとする尋尊。両者の姿勢は好対照といえるだろう。」(136ページ)

 興福寺のある大和と興福寺の有力な荘園のある越前とでは、応仁の乱の影響のおよび方が違うことにお気づきであろうか。大和では畠山義就と政長の兵力が衝突するというような小競り合いはあったが、それは応仁の乱以前のことである。そもそも畠山氏の本拠は河内であって、大和ではない。大和の衆徒・国民は紛争を繰り返しているが、興福寺の威信には服しているところがある。越前は興福寺からは遠く、斯波氏やその家臣の朝倉氏のような武士の方が荘園との距離は近い。なお、呉座さんは触れていないが、応仁の乱が始まって少し経った文明3年(1471)に蓮如上人が越前吉崎に移ってここを拠点に北陸における浄土真宗の布教に努めている。この書物の主人公である経覚と尋尊とは全く別の仏教の世界が越前で展開されようとしていたのである。
 
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