親孝行の人気

5月4日(土)晴れ

 5月1日に、NHKカルチャーラジオ文学の世界『落語・講談に見る「親孝行」』の第5回「孝行者は人気者―落語『孝行糖』』を聴く。

 頭は悪いが気立てのよい与太郎が親孝行だというので奉行から青緡(あおざし)五貫文(現在の貨幣価値では12万円ほどだそうである)を頂く。長屋の者たちがこれを元手に商売をさせようと考える。むかし嵐璃寛という大坂の役者が江戸に出て、中村芝翫と共演し東西の人気役者の共演ということで大当たりをとった。そのときに大坂の商人が璃寛茶に芝翫茶という反物を売り出して大もうけをしたが、江戸の方でも負けずに璃寛糖・芝翫糖という飴を売ってひと儲けしたという例から、孝行糖という飴を売らせようと話になる。

 本来ならば五貫文の中から飴売りの衣装や道具一式を買いそろえるところだが、長屋の人々がそれぞれ金を出しあって準備を済ませてやり、売り声まで考えだして覚えさせてやる。親孝行の徳で、飴がよく売れる。それで与太郎はますます張り切って商売に励む。ところがある日、水戸の殿様の屋敷の前まで売りに出て鳴り物は禁じられているのに鳴らして門番にひどく打擲(ちょうちゃく)される。通りがかった人がとりなしてくれて、愚か者であり、親孝行であるという事情がわかって放免される。「馬鹿野郎、よっぽどぶたれたろう。どことどこをぶたれた?」「こぉこぉとぉ、こぉこぉとぉ(孝行糖)」

 この話はもともとは大阪でできた話だとされる。明治初期の大阪に孝行糖という飴を売り歩く行商がいて、そこからヒントを得て大阪で作られた話を二代目の三遊亭金馬が東京に持ち帰って今のような話にしたというのが通説である。しかし、文献を調べると、孝行糖売りという商売の歴史はもう少し遡ることができるという。

 江戸末期、神田の御成道(現在の秋葉原周辺)で露天の古本屋(貸本屋という説もある)をしていた藤岡屋由蔵という人物が、江戸の噂や事件などがあれば書き留めた日記を書き続け、1804(文化元)年から1868(明治元)年までの65年間、152巻におよんだ。この『藤岡屋日記』の1846(弘化3)年の記事に、孝行糖売りのことが挿絵入りで記されている。孝行糖という菓子売りが来て、その服装は、半纏に雪と筍の絵が描かれていたという。雪と筍は中国の二十四孝の中の孟宗の故事にちなむものであり、落語がこの孟宗が老來子になっているが、飴売りの口上はほとんど同じである。

 要するに『孝行糖』という落語は歴史的な事実に根拠があり、そういう飴売りが商売として成り立つだけの親孝行を尊重する精神風土が江戸時代末から明治にかけての日本にはあったということである。講師である勝又さんは、松尾芭蕉と高山彦九郎が孝子を訪ね歩いた例を挙げてそのような精神風土の存在を強調する。そして江戸時代の孝行者が人気と尊敬を集めたことをオリンピックのメダリストのようであるとも論じている。

 前回の放送について触れた「親孝行の周辺」(4月28日付の当ブログ)では6代目の三遊亭円生の口演が紹介されたが、今回は三代目三遊亭金馬(1894-1964)の口演の一部が放送された。勝又さんは1970年生まれだそうだから、三代目の生前の声は聞いたことがないはずであるが、他の演者でなく三代目を選んだのはそれだけ定評のある口演だからであろう。(残念ながら美声ではないのだが)声がよく通り、口調がしっかりしていて分かりやすい。「楷書芸」と評されたゆえんである。私淑していた三代目三遊亭円馬の芸の豪快な面を継承したと言われる(これに対して、黒門町の師匠こと八代目桂文楽は繊細な面を継承したと言われる)。

 根岸の師匠とかやかんの先生とか呼ばれた三代目には想い出や暮らしぶりなど身辺に関する雑談集である『浮世断語』という面白い本があり、この種の本をもっと書いておいてほしかった(編集者が聞きだしておいてほしかった)と思う。ある人間が話したいと思っていることと、他人が知りたがっていることは必ずしも一致しない。そのあたりの折り合いをつけて、面白い本をまとめて行くのが編集者の仕事である。

 ところで一つ疑問に思うのは、与太郎が飴をどこから仕入れていたのか、それとも与太郎かその周囲の人たちが自分で作っていたのかということである。この落語ができたことの人たちには分かっていたことだろうが、現在になってみると調べなければ分からない。あるいは調べてもすぐには分からないことなのかもしれない。
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