文字にかかわる神話・伝説

2月6日(月)曇りのち晴れ

 プラトンの対話篇『パイドロス』の終わりの方に、文字にかかわる次のような説話が紹介されている。エジプトのナウクラティス地方にテウトという神が住んでいて、「この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である」(藤沢令夫訳、岩波文庫版、162ページ)という。テウトは自分の発明を、神々の王であるタモス(アンモン)のところにもっていって批評を仰いだのであるが、文字について、
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」(163ページ)というと、タモスは文字は「記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」(164ページ)といって、文字と人間の知性との関係について悲観的な見通しを述べる。
 確かに文字の発明によって、むかしむかしの遍歴する吟遊詩人のような記憶力の持ち主は必要がなくなり、超人的な記憶力は神話・伝説の世界に去っていったかもしれないが、文字で書かれた、いわば外部記憶装置である書物を持つことによって、全体としての人類の文化の蓄積はより豊かなものになったのではないかという気がする。

 しかし、神話・伝説の世界では文字の発明についての否定的もしくは懐疑的な意見はほかにも見出される。中国では、文字は蒼頡という人物によって発明されたと語り継がれてきた。伝説というよりも神話的な存在である中国古代の君主・黄帝の家臣に蒼頡という人物がいて、「生まれながらにして特徴があり、大きな竜顔で、四つの目が霊光を放っていた」(袁珂『中国の神話伝説』、238ページ)。彼は大きくなると、自分の周囲の事物を注意深く観察し、それら大自然の自然現象に基づいて文字を発明した。「この非凡な発明創造がなされるや、天でさえ驚いて雨のように粟を降らせ、鬼もびっくりして夜な夜な悲しそうに泣いたという」(同上)。
 この説話は『淮南子』「本経訓」に出てくるのだそうであるが、その注釈者である高誘の説によると、「人びとがそれ以後本末を転倒して、農耕という大業を放棄し、錐や刀で文字を彫るという小利をむさぼって飢えるかもしれないので、あらかじめ粟を降らせ、やがてやって来る飢饉から救うとともに、世人に対する警告ともしたのである。鬼はそれら恐るべき文字によって弾劾されるのを恐れ、夜な夜な泣いたのである」(同上)。この解釈が正しいかどうかは、さらに検討の余地があると思うが、文字の発明が人類にとって必ずしも幸福ばかりをもたらすものではないという見通しは、プラトンが『パイドロス』で述べたものと共通しているのではないかと思う。

 しかし、プラトンの場合と、『淮南子』の場合とでは議論の前提としての文字についての知識がかなり違っていたのではないかという気もしないではない。プラトンは、ギリシャ文字だけでなく、エジプトの話をしているのだから、エジプトの象形文字についても知っていたはずであり、さらにフェニキア文字についての知識もあったと思われる。それに対して、『淮南子』の著者は、漢字だけしか知らなかったのではないか。あるいは他の文字も知っていたのであろうか。

 日本の場合は、文字の発明ではなくて、文字が輸入された経緯が語られている。厳密にいえば、文字の輸入とは言えないかもしれないが、とにかく文字にかかわる神話の一種として取り上げてみたい。
 応神天皇の御代に百済から阿直岐という人物がやってきて、彼が儒教の経典に通じているので、天皇は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という自分の皇子の師として学ばせたが、彼にお前よりも優れた学者がいるのかと尋ねると、王仁というものがおりますという話だったので、彼を日本に呼び寄せたところ、『論語』と『千字文』をもって来日したという話が『古事記』に出てくる。
 これは中国の学問が朝鮮半島を経由して日本に入ってきたという話で、漢字がどのようにして日本に入ってきたという話ではない。『日本書紀』の記す年代をそのまま信じれば、応神天皇の治世は270年から310年までである。それよりも古い時代から(使いこなせるかどうかは別の問題として)日本に漢字が入ってきていたことは、考古学的な知見から明らかである。だから、この説話については別の解釈を試みる必要がある。ここで、問題になるのは、『千字文』は中国の南北朝時代の梁の周興嗣という人物が撰んだということなので、6世紀前半の成立と考えられ、応神天皇とは年代が合わないということである。

 『日本書紀』の、とくに雄略紀あたりには「呉(くれ)」の国というのが盛んに出てきて、これは中国の歴史書に記されている「倭の五王」と中国の南朝の交流と対応する。だから南朝の梁から日本に『千字文』が渡ってきても不思議はないのである。『宋書』「倭国伝」に記載されている倭の武王(ふつう、雄略天皇のことと考えられている)の上表文「昔より祖禰躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。・・・」というのは、堂々たる漢文で、おそらくは宮廷につかえていた渡来人の手によって書かれたというのが通説である。

 話の重点が神話よりも歴史の方に移ってしまったが、倭の五王時代の日本は南朝寄りだったのが、中国を統一したのは北朝の隋だったので、話が違ってくる。大陸の文化が日本にわたってくる経路は朝鮮半島経由と、中国の南方から島伝いの複数の経路があるはずで、『古事記』や『日本書紀』における対外関係の記述を考えるときに、この問題は避けて通れない。百済から王仁がやってきて『千字文』を伝えたという記事には、『古事記』が成立した当時の、東アジアの政治情勢がいろいろと反映されていたと考えるべきなのである。

 それで、話を神話・伝説に戻すのだが、王仁は日本にやってきて、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」という和歌を詠んだという。この歌は「安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌と並んで、和歌の父母といわれ、手習いの教材として用いられた。「安積山」の方は奈良時代の高官であった橘諸兄と采女についての伝説に由来する。王仁は日本語を母語としない外国人なのに、立派な和歌を詠む凄い人で、日本文化にとっての恩人であったという伝説は、長く余韻を残したのである。どうも日本文化の伝統の中では、文字の効用は疑われなかったようである。

 世界の歴史を見渡して、他の文化の中で発展してきた文字を借用して自分たちの言語を記すというのはそれほど珍しいことではないので、文字を輸入したという神話はほかにも例があるかもしれない。このほかにも、なぜ、自分たちの民族には文字がないのかという神話の例もある。そのあたり、機会があれば論じてみたい。
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