『太平記』(144)

2月5日(日)曇りのち雨

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するために、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は中国・四国の軍勢を率いて三井寺に入っていた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は窮地に追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得て、再び都を占領した。20日、尊氏・直義追討のため関東に向かっていた宮方の搦め手の軍勢が引き返して、東坂本の宮方の軍勢に合流した。宮方は27日に、再度京都への攻撃を開始し、吉田神楽岡に築かれていた足利方の城砦を攻め落とした。

 その一方で結城宗広、楠正成、名和長年ら3,000余騎は比叡山の西の麓から都へと進んでいたが、高野川と賀茂川の合流点付近で火を放った(この軍勢は高野川沿いに下ってきたと思われる。このあたり、岩波文庫版の脚注はどうもすっきりした記述になっていない)。尊氏はこれを見て、神楽岡の城砦を攻め落とした山法師たちが、今度は糺の森付近にいると思われる。山法師ならば(歩兵中心なので)騎馬の軍勢で追い散らすのは簡単である。急いでやっつけて来いと、上杉重能、畠山国清、斯波高経らの武将に5万余騎の軍勢を率いさせて差し向ける。〔ここでも尊氏は敵の軍勢の正体を見誤っている。〕
 楠は並ぶもののない勇気の持ち主であった上に、智謀第一という武将であったから一枚板の軽便な楯を500~600畳(楯は、畳と同じように数えるらしい)こしらえさせて、その板の端に留め金と掛け金をつけ、敵が攻めてきたときはこの楯を並べて、その隙間から矢を射かけ、敵が後退すると、きわめて強い騎馬武者たちに後を追わせる。足利方は進むことができず、5万の軍勢がわずか800騎の楠勢に追いまくられて五条河原まで後退してしまった。[楠の武勇と知略に加えて、京都は北の方が標高が高いので、北から攻める方が有利なのである。〕

 敵はこれだけかとみていると、北畠顕家が2万余騎を率いて東方の粟田口から攻め寄せ、車大路に火をかける。尊氏はこれを見て、北畠顕家が攻めてきたからには、自分自身が出向かないといけないだろうと、50万余騎(明らかに誇張がある)を率いて鴨川の四条・五条の河原に出て応戦、一進一退の攻防が続く。足利方は多数ではあるが、士気が低く、北畠勢は数的に劣るために、交代しながら戦うことができず、士卒が疲れてしまった。このために両軍ともに戦いあぐね、戦闘が低調になっていたところに、新田義貞、脇屋義助、堀口貞満、大館氏明が3万余騎を三手に分けて、双林寺、将軍塚、(岡崎の)法勝寺の前から新田の中黒の旗を50余なびかせて、二条河原から足利勢の横を駆け抜けて、敵の後ろを切ろうと攻め込んできた。

 足利方はこれを見て、「それ、例の中黒が来た」と、もともとその武勇を恐れていたので、市内に充満している大軍が慌てふためいて四方八方に逃げ散ってしまう。「四角八方に逃げ散ること、秋の木の葉を山颪の吹き立てたるに異ならず」(第2分冊、468ページ)と『太平記』の作者はその有様を木の葉に例えている。義貞は鎧を脱ぎ変え、馬を乗り換えて、ただ1騎、敵の中へ懸け入り、尊氏を探し出して討ち果たそうとしたのだが、尊氏の運が強かったのであろうか、見つけ出すことができなかったので、やむなく、軍勢を十方に分けて、逃げる敵を追わせたのである。

 その中で、新田一族の里見、鳥山の人々は、わずか26騎で、丹波路の方へ逃げていく敵が2,3万騎あるのを、その中には尊氏がいるだろうと考えて、桂川の西まで追っていったのであるが、大勢の敵軍に反撃されて、全滅してしまった。そういうわけで、十方に分れて追っていた宮方の兵どもも、むやみに長追いをすると危ないからやめようと、皆、京都市内に戻ってきた。〔里見氏は新田氏の祖である義重の子どもである義俊から始まり、この時代は一族として新田氏を支えていた。滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描き出したように、なんとか戦国時代を生き延びたが、江戸時代の初めに断絶してしまう。〕

 日もすでに暮れてしまったので、楠正成が新田義貞の前に出て次のように進言した。本日の合戦は思いがけなく百万の敵を退けましたが、敵はそれほど兵力を損耗していません。また尊氏の行方も分かりません。味方の方が軍勢が少ないので、このまま都にとどまっていると、兵士たちは財宝の略奪に熱中してひとところにとどまっていることはないでしょう。そういうことだと、また敵が引き返してきて、手の施しようがなくなることは避けられません。敵に少しでも勢いを着けさせると後の合戦が面倒なことになります。今日はまず引き返して、1日馬の足を休め、明日あるいは明後日に、もう一度猛攻を加えれば、敵に打撃を当てて、遠くへ追い払うことができるでしょう。
 義貞はこの意見はまことにもっともであると思い、宮方の軍勢はみな坂本へと戻っていったのである。

 尊氏は、今回もまた丹波路まで退却しようと、寺戸(京都府向日市寺戸)のあたりまで後退していたのだが、京中には敵が1人もなく、皆引き返したという噂が伝わってきたので、また京都市内へと戻った。このほか、八幡、山崎、嵯峨、仁和寺に落ち延びていた武士たちも、これを聞いてわれ先に戻ってきたのは、どうもみっともないことであった。尊氏は、敵の軍勢が増えているわけでもなく〔実際には増えている〕、両者を比較してみれば、宮方の方が兵力は少ないのに、毎度追い立てられて、見苦しい負け方をするのは、尋常なことではない。我々が朝敵であるために、比叡山の僧侶たちに呪詛されているからであろうか」と自分の見通しや戦術の拙さを棚に上げて、余計なことを考えていたのは愚かなことであった。〔もちろん、この後の行動を見ていると、尊氏はそれほどのバカではなかった。〕

 さて、宮方は楠の進言を受け入れて、勝利したにもかかわらず、退却して、足利方を京都市内におびき寄せ、徹底的にたたくという作戦をとることにした。さて、この作戦はうまくいくであろうか。それはまた次回。
 
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