呉座勇一『応仁の乱』(8)

2月3日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は奈良の興福寺の大乗院の院主であった経覚と尋尊という2人の高僧の日記を史料として、応仁の乱の経緯をその前史から結果にいたるまでたどったものである。(経覚の『経覚私要抄』と尋尊の『大乗院寺社雑事記』以外にも、この時代の記録としては関白近衛政家の『後法興院記』のような同時代史料があるが、なぜこの2つの日記を選んだか、著者ははっきり書いていない。おそらく、『後法興院記』は応仁の乱の発端の時期の部分は残っているが、その後10年の記事が失われていること、経覚と尋尊の日記が応仁の乱のほぼ全部を書き残していることと、両者の対比から見えてくる部分があることのためであろう。さらに、大和と関係の深い、河内の守護である畠山氏の家督をめぐる争いが、応仁の乱の主要な動因となっていることも関係していると思われる。)

 畠山氏の家督をめぐっては義就とその従兄弟である政長との間に争いが続き、河内に基盤を持つ義就に比べて軍事力において劣る政長は、当時の幕府の有力者であった細川勝元を頼り、いったんは家督を継承して幕府の管領職にも就任した。将軍義政はその時々で優勢な方を支持し、優柔不断な態度を続けた。細川・畠山とともに管領職に就くことのできる家柄である斯波氏にも義敏と義廉の家督をめぐる争いがあった。将軍義政は、後継ぎがいないために弟の義視を還俗させて将軍職を継がせようとしたが、その後で、義尚が生まれた。
 義政の側近である伊勢貞親を中心とするグループは義政が将軍を続け、義尚を後継とすることを望み、幕府の有力な大名の1人であった山名宗全は義視を将軍職に、また斯波義廉を管領職に就けることを望んでいた。さらに細川勝元は、義政の後、義視が中継ぎの役割を果たし、その後義尚に将軍職を譲ることを構想していた。
 文正2年(1467)に山名宗全がクーデターを起こし、政長から畠山氏の家督と管領職を奪う。政長は上御霊社に陣を構えて抵抗するが、山名宗全に支援された義就に敗れる。年号が応仁に変わった5月に細川派の反撃が始まり、将軍御所を細川派に包囲された義政は、山名討伐の姿勢をとることを余儀なくされる。6月に細川方の東軍が攻勢を仕掛けるが、山名方の西軍の畠山義就、朝倉孝景らの徹底抗戦にてこずり、決定的な勝利を得ることができなかった。そうこうするうちに中国地方の大大名である大内政弘が大軍を率いて西軍に加わり、西軍が攻勢に転じた。両者とも短期間で決着をつける戦略をとったが、予期に反して戦線は膠着してしまった。

 応仁2年(1468)8月、義政は伊勢に逃れていた弟の義視を呼び寄せ、9月に義視は東軍の陣中に入った。義視は義政の側近の1人である日野勝光(義政夫人富子の兄)を斥けることを要求するが、義政は聞き入れず、かえって閏10月にいったん失脚していた伊勢貞親を政務に復帰させ、自派の勢力拡張を図る。
 危険を感じた義視は11月に京都を脱出して比叡山に逃れ、23日には帰京して西軍の斯波義廉の陣に入り、24日に西軍の将士たちは義視を将軍と仰いだ。これにより、事実上2人の将軍が並び立つことになった。義視を将軍と戴く側を西幕府と呼ぶ。この結果、これまで和睦の道を模索していた義政は態度を硬化させ、上皇から足利義視治罰の院宣を得る。このため、平和はますます遠のく。

 このように両軍の当初の目論見に反して戦乱が長期化した背景には、戦法の変化があると呉座さんは指摘する。その第一は井楼に代表される防御施設の発達である。井楼は戦場で敵陣を偵察するために材木を井桁に組んで構築する物見櫓である。もっともただの見張り台ではなく、武器を備え付けて、敵を撃退する役割も持っていたし、さらには攻城用に築かれることもあった。戦乱の進展につれて、京都市内には邸の周囲に堀を掘って要塞化することが多くなった。このような要塞化した邸は「御構」などと呼ばれたが、その中に庶民の住宅も含むような大規模なものであった。このため、京都での市街戦は、実質的に攻城戦となった。第一次世界大戦が塹壕戦となったことで長期化したのと同様に、応仁の乱は防御側が有利になったために長期化したと呉座さんは論じている。

 戦局の長期化に伴い、その打開の新戦力として登場したのが足軽である。足軽は甲冑などを着けない軽装の歩兵である。足軽は当時の慢性的な飢饉状況の中、農村から都市に流入した下層民を主な補給源とし、義教以後の将軍の恣意的な裁定によって没落した大名の家臣たちが加わって形成された土一揆が、応仁の乱を機に足軽として組織され、敵の補給路の遮断、補給施設の破壊などに活躍した。彼らはその機動力を生かして略奪や放火によって敵軍を疲弊させたが、それだけでなく、京都在住の公家・寺社・庶民にも大きな被害をもたらした。足軽の大量動員は、京都の荒廃に拍車をかけたのである。

 応仁2年(1468)前半までは、京都の町中で合戦が行われたが、後半になると主戦場は東山・山科・鳥羽など周辺地域に移っていった。これは自軍の補給路を確保すると同時に、敵軍の補給路を遮断するためであった。当時の京都は突出した大都市であり、膨大な人口を養うためには外部から輸送される物資に頼らなければならなかった。応仁の乱の長期戦化に伴い、京都近郊地域の掌握が戦況を左右するようになったのである。こうして近郊の住民たちも戦乱に巻き込まれることになったが、領主と交渉したり、敵軍と戦ったり、敵軍と直接交渉したりして、食料の徴発に対処しながら、生き延びていくのである。

 応仁の乱同様に当ブログ上での呉座さんの著書の紹介も長引いているが、今回は、その長引いた理由について述べた個所を紹介した。両軍ともに短期の機動戦を志向したにもかかわらず、防御施設の発達により長期的な陣地戦に巻き込まれることになり、社会の変化と戦法の変化が重なり合い、影響しあって、乱はますます長期化していくのである。もちろん、幕府内部における権力闘争の複雑さや、有力大名の家督争いなど、従来から指摘されてきた問題もこれにかかわっていることは言うまでもない。
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