斎藤兆史『英語襲来と日本人――今なお続く苦悶と狂乱』

1月30日(月)曇りのち晴れ

 1月28日、齋藤兆史『英語襲来と日本人――今なお続く苦悶と狂乱』(中公文庫)を読み終える。2001年に講談社から『英語襲来と日本人――エゲレス語事始』として公刊されたものに、「新版あとがき」を加え、副題を「今なお続く苦悶と狂乱」としたものである。著者は東大とその大学院で英語英文学を先行したのち、英米の大学院に留学、帰国後は東大を中心に英語教育に携わってきたようであるが、この書物では日本人が英語とどのように付き合ってきたか、英語をどのようにして身に着けようとしていたかを歴史的にたどりながら、そのような歴史的伝統から有益な教訓を学ばないままに、日本の英語教育の方向性が決められようとしている現状に異議を唱えている書物である。特に、エリートのレベルと大衆のレベルとでの英語に対する付き合い方は違うはずだという主張が全体を貫いているように思われる。

 プロローグで著者は、福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石という、一代前の一万円札・五千円札・千円札にその肖像を描かれた人物が、この順序で、近代日本における英語受容史を体現する存在であるという。福沢はそれまでに修めていた蘭学を捨てて、開国と同時に大量に流入し始めた英語を手探りで研究した、英学の黎明期を生きた偉人である。新渡戸は明治初期にほとんどの授業を英語で受けて、学問を修めている。ところが漱石になると、英学は英文学と英語学とに分裂をはじめ、専門分化した研究として学問分野の一端を担うようになってくる。
 このような歴史を別の角度から見ていくと、「基本的に日本の英語受容史は偉人とエリートの歴史である。日本の英語が論じられる際、たいがいここが盲点になる」(7ページ)と著者は指摘する。「そもそも、日本英語受容史上、一般大衆の英語教育などが成功したためしがあるのだろうか。日本の英語が駄目になったというが、それは先にあげた偉人やエリートたちの英語と比較した場合の話だ」(8ページ)ともいう。エリートと大衆を分ける考え方に疑問を感じる人もいるかもしれないが、著者はこの考え方に基づいて英語受容の歴史を記述しようとする。

 第1章「江戸時代の英語」は、江戸時代初期のウィリアム・アダムズ(三浦按針)から始まって、幕末の蕃書調所→洋書調所→開成所の活動までを概観している。取り上げられている人物が残した英文や英文の和訳が紹介されているのが興味深い。ここでは日本語と英語との言語構造上の差異が、日本人の英語学習の障害になっていること、それゆえにこの問題に早くから気づいていた蘭学の伝統(さらには漢学の伝統)から学ぶべきものが少なくないと論じている。開成所の英語教師の英文と、中浜(ジョン)万次郎の英文の手紙を比較して、文法・訓読を重視する英語教育の利点を説いている辺りは一読に値する。一方、庶民のレベルでは怪しげな英語の例も紹介されている。

 第2章「明治時代の英語」では、明治の初期においては、開成所→開成学校や札幌農学校の授業が生徒たちを「英語漬け」にしていたこと、しかしそれだけでなく、内容をしっかり把握するための配慮がされていたことが指摘されている。著者はこのような教育は一部の英語教育者が理想とする「イマージョン」に他ならないのではないか、だとすればこの方式が急速に下火になっていったことの意味を考えるべきではないかという。確かに新渡戸稲造は札幌農学校で英語漬けの教育を受けたのであるが、彼のような人間は「その伝記から明らかなとおり、大きな志を抱いてとてつもない努力をしたのであり、英語を学ぼうが学ぶまいが、どんな時代に生まれようが、偉人として大成する運命にあるのである。」(107ページ)と『努力論』の著者らしい意見も添えられているのである。
 続いて、庶民のレベルにおける英語熱を取り上げ、さらに夏目漱石における英語をめぐる苦悩の中身を分析している。新渡戸の場合には、英語は実学の媒体として機能していたのだが、夏目の時代になると、英語は英語・英文学研究という枠の中に押し込まれてしまい、「学問の対象としての英語」か「技術としての英語」か、「教養英語』か「実用英語」かというような無益な二項対立が生まれ、それが現代にまで尾を引くことになったという。とはいうものの、明治の終わりには英文学研究はむしろ隆盛を極め、その一方で斎藤秀三郎や岡倉由三郎のような優れた英語教育者が現われた。

 第3章「大正・昭和・平成時代の英語教育」では、学校教育の拡大→大衆化に伴って起きた英語教育の変化と音声・会話中心の新しい動きの例と、それに対して異を唱えた斎藤および岡倉の理論と実践とが紹介される。読解中心主義という岡倉の理論は、エリート向けの教育論としては正しかったが、彼がそれをむしろ大衆に向かって説いたのは誤りであったと著者は論じている。
 さらに昭和戦後・平成における英語教育の混乱、「コミュニケーション」重視の英語教育の登場などが批判的に取り扱われている。

 最後に、第4章「これからの英語」では、現在の日本の英語教育が目指している二言語併用主義について、その奥底にある不気味なものを指摘し、英語教育については、もっと学びたいという生徒を対象とする自主学習の拡大を推奨している。最後に優れた英語教師とそのための教育の必要性、日本の英語関係者がもっと言語政策・言語教育政策に関心を持つことの重要性を論じている。

 最初に紹介したように、著者はエリートと大衆で英語に対する取り組みは違うという議論を持っている。著者が言うように、「英語ができる人間はいつの時代にもいる。そして、できない人間も、またいつの時代にもいる。」(146ページ)というのはそのとおりだが、英語ができるのがエリートで、できないのが非エリートというわけではない。これまた著者が論じているように、英語の授業はコミュニケーション重視、授業は全部英語でなどという言語教育政策の根幹にかかわる決定をしている人は、エリートではあるが、英語のできない人である。そういうことを考えると、この議論はもう少し具体的に詳しく論じる必要がある。著者は東大の先生であるが、私の知り合いの東大の先生は、最近の学生の質が下がってきたとこぼしている。そのことと、大学生全般の学力の問題は別の問題である。大学の大衆化というのは、エリートだけでなく、大衆も大学教育を受けるようになったということであって、大学生の全部が全部大衆になったというわけではない(この点は著者も同意見のはずである)。

 さらに英語教育の目標をめぐっても、議論が必要ではなかったか。一方で国連の通訳になるような人も必要であろうし、他方で国際学会で発表するような研究者になる人もいなくては困る。エリートの側に属する人でも英語の必要性はそれぞれの事情によって異なるし、大衆の側でも会話中心といったって、その会話の中身が違うことは大いにありうる。職業的に英語を話すということは、多くの職業の場合、今のところ必要はないけれども、外国人相手の商品を扱う商店の店員の会話の内容は、商品の性格によって違ってくるはずである。

 著者の主張の中で一番賛成できるのは、自主学習を強調していることである。英語に限らず、言語の学習は、個々の学習者の環境や興味によって、大いに多様であって、そのことを無視して、画一的にある教育内容を強要するのは平等主義とは言えないのである。英語を一生懸命生徒がいる一方で、まったく勉強しない生徒がいてもいいし、英語に加えてスペイン語とか中国語とかを勉強するという生徒がいてもいい。

 最後に、英語といっても多様性があるという問題についても論じてほしかったという気がする。この書物のテーマとの関連でいえば、学ぶ対象とするのが、British EnglishからAmerian Englishに変化しているということもあるし、国際機関や会議で話される英語についてみると、また別の問題があるように思うからである。 
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エリートの英語、ご指摘はもっともですが

>このような歴史を別の角度から見ていくと、「基本的に日本の英語受容史は偉人とエリートの歴史である。日本の英語が論じられる際、たいがいここが盲点になる」(7ページ)と著者は指摘する。

〇記事拝見しました。
 エリートの英語、この本のご指摘はもっともですが、英語ができても仕事のできない者(エリート)が居ること、英語教育では、この問題も論じてほしいところです。
 この問題は、私の周囲を見ても、現場で最も重要な問題です。
 草々

Re: エリートの英語、ご指摘はもっともですが

> >このような歴史を別の角度から見ていくと、「基本的に日本の英語受容史は偉人とエリートの歴史である。日本の英語が論じられる際、たいがいここが盲点になる」(7ページ)と著者は指摘する。
>
> 〇記事拝見しました。
>  エリートの英語、この本のご指摘はもっともですが、英語ができても仕事のできない者(エリート)が居ること、英語教育では、この問題も論じてほしいところです。
>  この問題は、私の周囲を見ても、現場で最も重要な問題です。
>  草々
 アフリカで農業の指導をされている経験からの貴重なコメントをありがとうございました。実技ができてこそ、意図も伝わるという場合も多いと思います。ご指摘の点は、英語教育というよりも、開発援助というようなもっと広い文脈で議論されるべきだとは思いますが、私もできるだけ今後機会を見つけてこの点についても発言していきたいと思います。
 英語教育の現場、さらには実際にどういう場面で英語が使われているかを知らない(そして、自分はあまり英語ができない)エリートの恣意的な願望に基づく意見で英語教育が左右されている現状を、斎藤さんは怒っているのですが、英語が使われている現場の実態については、多少認識が不足しているところがあるかもしれません(私もそんなに知っているわけではないのですが)。英語を学ぶ意義は、①英米(アイルランド、カナダ、豪州、ニュージーランド、南アフリカ)などの主要国の言語である、②国際機関や国際会議で使われている言語であるという2つが主なものですが、①が多様であるうえに、②も実は①と同じものではないという点にも触れてほしかったと思います。
 今後ともよろしくお願いします。
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