『太平記』(143)

1月29日(日)曇りのち晴れ、気温が上がる

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺(園城寺)を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅(じょうぜん)の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は一時は腹を切ろうとするまで追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。

 そうこうするうちに、尊氏討伐軍の搦め手として東山道から鎌倉に向かっていた忠房親王(承久の変で佐渡に配流された順徳上皇の曽孫)、尾張宮を将とする軍勢は竹下、箱根の合戦には、あらかじめの取り決め通りにいかず、間に合わなかったが、甲斐、信濃、上野の武士たちが参集したために、大軍となって鎌倉に入った。
 そこでその後の鎌倉の情勢を確認すると、新田義貞の軍勢は竹下の合戦に敗北して都に引き返し、それを追って足利尊氏が上洛した。その後、さらに北畠顕家卿が、尊氏の後を追って都に向かったということであった。ということは、どこかで新田が踏みとどまれば、そこで合戦があるに違いないと、鎌倉を出発して、西へと向かった。この軍勢に加わっていたのは、洞院実世、持明院基行、堀川光繼、園基隆、二条為次らの公家と、島津貞久、小田貞知(常陸の豪族)、美濃の武士である猿子(ましこ)・落合・饗庭(あえば)・石谷・纐纈(こうけつ)、伊木、信濃の武士である村上・仁科・高梨・志賀、備前の武士である真壁らを主だった顔ぶれとして、合わせてその軍勢は2万余騎となり、正月20日の夕方に東坂本に到着した。

 宮方の軍勢は、いよいよ勢いづいて、翌21日にも京都へ攻め寄せようという意気込みであったが、縁起が悪い日が続いているうえに、これまで強行軍で馬を進めてきたために、馬たちがすっかり疲れて動くことができなくなっていたので、攻撃に取り掛かるのを先延ばしして、27日に京都に攻め寄せるということに決めた。

 その27日がやってきたので、攻撃のために多少の余裕をもたせようと、明け方早くから楠、結城、名和は3,00余騎で、西坂本(比叡山の西麓、京都市左京区修学院のあたり)から下って、一乗寺下り松のあたりに陣を取る。顕家卿は、3万余騎の軍勢を率いて、大津を経て山科に陣を取る。新たに加わった洞院実世は2万余騎を率いて、赤山(せきさん)禅院(左京区修学院関根坊町)のあたりに陣を取る。比叡山の僧兵たちは1万余騎で、龍花越から鹿ケ谷(京都市左京区)へと出て陣を構えた。新田義貞・脇屋義助京大は5万余騎で、今道を通ってやはり修学院の方角へと向かった。大手、搦め手、合計して10万3千余騎、それぞれ明け方から陣を取ったけれども、敵に悟られないように、わざと篝火をたかせなかった。〔10万3千余騎というのは宮方としては最大の動員であるが、それでも足利方の軍勢の方が数の上で上回っていることを警戒しているようである。〕

 辰刻(午前8時ごろ)に合戦を開始するという取り決めであったが、血気にはやった若い僧兵たちは、武士に先んじられては面目が立たないと思ったのであろうか、まだ卯刻(午前5時ごろ)だというのに、神楽岡(左京区吉田神楽岡町の吉田山)へと押し寄せた。

 この岡には宇都宮配下の紀姓・清原姓の党の武士団が、城郭を構えていた。したがって、そう簡単には人が近寄って攻める手立てもなかったのだが、比叡山僧の道場坊祐覚、彼と僧房を同じくする同輩の僧たち300余人が、真っ先に城柵の門に押し寄せ、塀を隔てて戦ったが、高櫓から大きな石がいくつも投げかけられてきたので退却する。そこへ南岸円宗院という比叡山僧とその配下の僧兵500余人が、入れ代わって攻め立てる。城の中で守っている武士たちの中には、強い弓を弾くことで名高い兵が多かったので、走り回って矢を射かけてきたので、多くの僧兵たちが物の具を射通されて、これはかなわないと思ったのであろうか、皆持楯という携帯用の軽便な楯の影に隠れて、新しい軍勢が攻め寄せてくるのを待った。

 ここに妙観院の因幡竪者(りっしゃ)全村という、比叡山全山に名高い勇猛な僧がいた。鎖帷子の上に、太い縅毛で荒目におどした鎧を重ねて、備前の長刀の鎬下りに勝負の葉の形をした太刀を脇に挟み、矢だけの太さは普通であれば大ぶりの鏑矢に使うほどの、生えて3年の竹をもいだまま節目を落とさずに削って、(刀剣の名産地として知られる備前の)長船製の刃渡り1.5センチの鑿ほどもある矢じりを矢にねじ附けたのを36本背負い(要するに仰々しい武器を見せびらかして自分の力を誇示しながら)、現われた。矢をもって弓を持っていないのは、この見るからに恐ろしい矢を自分の手で相手に投げつけて突き刺そうということである。

 切り立った崖の向かい側に、仁王立ちに建ち、鎧をゆすって矢が刺さらないようにしながら、名乗りを上げる。「先年、三井寺の合戦の首謀者とされて、越後の国へ流された妙観院の高(あら)因幡全村というのは、俺様のことである。城の中に籠もっている人々に、この矢を一つ受けてもらおう。ご覧あれ」と言いながら、例の矢を1本抜いて、櫓の小窓をめがけて、投げつける。すると、小窓の近くにいた武士の鎧の隙間を通して突き刺さり、その武士は櫓から落ちて、すぐに死んでしまった。これを見た城中の兵たちは、これは大変なことだ。普通の人間にできることではないと浮足立ってしまったところに、比叡山の護正院、禅智房などの僧房の若い僧兵たちが1,000余人が一斉に刀を抜いて攻めかかってきたので、宇都宮は神楽岡の城砦を捨てて、二条付近に陣を構えていた味方の軍勢に合流した。この武勇のために全村を手付きの因幡と呼ぶようになったという話である。〔京都で過ごした11年のうち、7年以上を神楽岡の麓で過ごしたので、このあたりに城砦を構えて防御するというのはよくわかる。全村の様子はいかにも猛々しく描かれているが、宇都宮はもう少し持ちこたえてもよかったのではないか。〕

 比叡山の僧兵たちが鹿ケ谷の方角から押し寄せて、神楽岡の城砦を攻めるという情報は、城砦を守っていた武士たちから伝わっていたので、尊氏は、すぐに城の加勢をせよと、一族の今川、細川の武士たちに3万余騎を差し添えて派遣したのであるが、城砦が早くも攻め落とされてしまったので、援軍としての役目を果たすことなく、なすところなしに鴨川を渡って京都に戻ってきたのである(この時代、鴨川の東は京都市内とは見なされていなかったのである)。

 これまで何度も書いてきたことであるが、足利方は兵力において勝っているが、宮方の方が戦意が高い。それに山の上から平地を攻める方が人も馬も勢いがつくので、有利である。さらに言えば、ここで比叡山の僧兵が活躍しているのが目立つ。地方出身の武士たちに比べると、彼らは京都とその周辺の地理にも詳しく、情報の伝達も容易であったと思われる。宮方は初戦に勝利してますます士気が上がり、足利方は何となくいやな気分になっているはずである。さて、この後の戦いはどのように展開していくか、それはまた次回に。 
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