呉座勇一『応仁の乱』(7)

1月27日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱であり、当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦火は地方に拡大し、全国各地で合戦が行われた。大規模で長期にわたる戦乱であったが、大名たちがなんのために戦ったのかがどうもわかりにくい。原因も結果も今ひとつはっきりしないが、この戦乱をきっかけに戦国時代が始まるなど、影響は極めて大きい。
 この書物は興福寺の大乗院の院主であった経覚の日記『経覚私要抄』と、その後継者である尋尊の『大乗院寺社雑事記』の2つの日記を史料として、少し離れたところから戦乱の経過と、その中での人々の暮らしの実態を探ろうとしている。興福寺と大和に目を付けたのは、応仁の乱の原因の一つが室町幕府の管領となることができる3つの家柄の1つである畠山氏の内紛、政長と義就の対立であるが、その畠山氏が大和に隣接する河内の守護として、大和に大きくかかわり、また大和の武士たちがこの内紛に巻き込まれ、さらにそれが応仁の乱とも結びついていくからであろうと思われる。
 文正元年(1466)12月26日に軍勢を率いて上洛した畠山義就は山名宗全とその娘婿の斯波義廉の支持を受け、室町幕府の管領職についていた畠山政長を攻略しようとした。政長を支援したのは細川勝元、京極持清であった。将軍義政は、当初政長を支持していたが、義就の方が軍事的に優勢だと見極めると一転して、義就を支持、政長を管領職から解任して斯波義廉を管領とし、政長のいた畠山氏の屋敷を義就に譲るように命じた。これに対し、政長は帰国せずに将軍御所の東側の上御霊社に陣を張って義就に対抗しようとした。結局、山名宗全の支援を受けた義就側が政長側を破り、政長は逃亡、山名宗全が政権を握った。
 この戦乱(御霊合戦)で将軍の命に従って中立を守ったために政長を見殺しにした細川勝元は巻き返しを図り、応仁元年5月の末に京都の各所で戦闘が始まる。
 足利義政は中立を守り、停戦を実現しようとしたが、勝元軍に将軍御所を包囲され、弟である義視に押し切られた形で山名宗全討伐を命じることになる。

 両軍の構成は将軍御所周辺に陣を展開した細川方が
細川勝元(摂津・丹波・讃岐・土佐守護)、細川成之(三河・阿波)、細川成春(淡路)、細川勝久(備中)、細川常有・持久(和泉両守護)、畠山政長(河内・紀伊・越中)、京極持清(北近江・飛騨・出雲・隠岐)、武田信賢(若狭・安芸分郡)、赤松政則(加賀北半国)、山名是豊(備後)、斯波義敏である。勝元が細川一門と盟友の政長・持清、そして反山名派を糾合して成立した軍で、東軍と呼ばれる。山名是豊は父である宗全と不仲だったので、6月に西軍から東軍に寝返った。
 山名方は堀川を挟んで一条大宮付近に陣を構えた。現在の京都市上京区の一条通以北の地域を西陣というのは、このことに由来する(誰でも知っていることではないかと思う)。この軍に加わったのは:
山名宗全(但馬・播磨・安芸守護)、山名教之(伯耆・備前)、山名政清(美作・石見)、山名豊氏(因幡)、斯波義廉(越前・尾張・遠江)、畠山義就(山城)、畠山義統(能登)、一色義直(伊勢・丹後)、土岐成頼(美濃)、六角行高(近江)、富樫政親(加賀)であり、大内政弘(周防・長門・豊前・筑前)が後から加わる。西軍の主力は山名一族と斯波義廉、畠山義就である。ただし、山名と畠山義就の関係は必ずしも密接なものではなかった。

 軍記物語である『応仁記』には東軍が16万騎、西軍11万騎とそれぞれの軍勢を記しているが、多少割引をして考える必要がある。しかもこれはあくまで総動員兵力であり、西軍の方は1,2万といったところではないか。また西軍は軍勢の招集に後れを取り、京都で苦戦を強いられたようである。

 幕府軍の地位を得た東軍は応仁元年(1467)6月6日、作戦を協議し、8日に足利義視を総大将として西軍に総攻撃をかけることが決定した。しかし山名是豊など、西軍の中から降伏を申し入れるものが現われたため、総攻撃は中止された。戦乱の拡大を止めようとする義政は西軍諸将に御内書を送り、降伏を勧告した。同日(8日)、一乗大宮で西軍の山名教之と東軍の赤松政則が戦い、東軍が勝利した。総大将の義視が自ら首実験を行った。「戦乱の拡大を抑止しようとする義政と、戦功を立てようと張り切る義視。大乱に対する兄弟の姿勢は対照的である。」(96-97ページ)

 翌9日、土岐成頼・六角高頼・富樫政親の3人が東軍の細川成之を通じて降伏を申し入れてきた。義政は彼らの真意を疑い、彼らが宗全や義就に攻めかかるまでは対面しないと返答した。さらに斯波義廉も東軍に降参しようとしたが、義政は斯波の重臣である朝倉孝景の首を差し出さなければ赦さないと返答した。これは義政の本意ではなく、義視や勝元らの意見に押されたのであろうと著者は推測している。勝元は宗全とともに斯波義廉にも打撃を与えようと思っているし、義視も戦功をあげたいと考えている。こうして終戦の道を閉ざされた。

 将軍御所を掌握した足利義氏は、山名方に通じる人物を御所から追放、さらには処刑し、そのことが我が子義尚を次の将軍にと望む日野富子の反発を招き、御所の中で孤立し、自邸(今出川殿)に戻ることになる。

 東軍は兵力の面でも大義名分の面でも西軍に勝っていたが、畠山義就・朝倉孝景ら西軍諸将の徹底抗戦にてこずり、決定的な勝利を収めることができなかった。ぐずぐずしているうちに、西軍は兵力を増強していった。応仁元年(1467)6月28日、安芸・石見・備前・但馬・備後・播磨の6か国の軍勢が丹波を経由して京都に入った。この軍勢が8万人というのは多すぎると『経覚私要抄』には記されているという。それでも万余の軍勢が入京したことは間違いないようである。しかし、西軍にとって何よりも大きかったのは、中国地方の大大名である大内政弘の入京である。
 大内は5月10日に本拠地を出発しているので、細川の挙兵というよりも、正月のクーデターによって樹立された山名宗全の政府を維持強化するために上洛を促されていてのことと推測される。おそらく京都の情勢を見極めるために、大内は海陸に分けて軍勢をゆっくりと進軍させ、先発部隊が7月19日に播磨室津(現在の兵庫県たつの市)に到着した。兵船は500艘という。翌20日には大内政弘本人が兵庫に到着した。政弘は周防・長門・豊前・筑前・筑後・安芸・石見・伊予8か国の武士を従えており、その数は数万人と噂された。

 東軍は大内軍到着の前に斯波義廉邸を攻略しようと、連日激しい攻撃を加えた。だが、攻め落とすことはできなかった。大内政弘は8月3日に兵庫を発ち、陸路での上洛を目指す。細川勝元は大内軍の上洛を阻もうとしたが、摂津の池田氏が寝返ったために失敗に終わった。
 大内政弘は8月23日に3万の大軍を引き連れて上洛し、京都の南の玄関口にあたる東寺に陣を取った。20日に大内軍接近を知った東軍は義廉邸の囲みを解き、23日には御花園上皇・後土御門天皇を将軍御所に移した。西軍に上皇・天皇を奪われないための措置である。(『太平記』『増鏡』に記されている、六波羅探題の邸に天皇・上皇と皇族方を移したという話を思い出す。)
 大内軍入京を知った足利義政の近習たちの中から西軍に内通しようとするものが現われた。このため、勝元は将軍御所を包囲、義政はこの連中を御所から追放し、彼らは糺河原で細川勢に襲われ、3・4人が討たれ、残りは逃亡した。また23日の夜、足利義視が伊勢の国に出奔した。

 大内軍の入京で東軍と西軍の力関係がまた変化し、援軍到着の勢いに乗って西軍の反撃が始まろうとしている。大内軍が西軍の勝利の切り札となるかどうかは、また次回に。
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