柳田国男とニコライ・ネフスキー

1月25日(水)晴れ

 柳田国男『故郷七十年』の中に、柳田と交流のあった外国人についての思い出が記されている箇所があるが、その中で最も多くの紙幅を割いて、「日本の学問のためにいろいろ尽くしてくれたから、どうしてもここに追憶してやりたい」(304ページ)とまで評されているのが大正時代に帝政ロシアから留学生として来日し、一方で柳田や折口信夫と交流し、他方で日本各地さらには中国にまで足を延ばしてフィールド研究を進めたニコライ・ネフスキーである。1917年にロシアで革命が起きたのち、本国からの送金が途絶えて生活苦に陥ったが、小樽高商(現在の小樽商大)、その後大阪外語専門学校の教師となり、大正12年(1923)年ごろには京都大学の講師も兼任した。この時に彼の授業を聴講していたのが、後に東京大学で文化人類学の教授となる石田英一郎である。

 石田は旧制一高卒業後、京都大学経済学部に進学(経済学部の教授だった河上肇に憧れての進学であったが、この時代、東京の旧制一高から京都大学に進学するというのはかなり例外的なことであった。もっと早い時期に同じように、一高から京大に進んだ一人が後の首相近衛文麿であるが、近衛が京大で学んだ頃の河上はマルクス主義者にはなっていなかった)、その間、一高ではセツルメント活動に従事、京都大学では社会科学研究で活動するなど、マルクス主義(福本イズム)の思想的な影響を受けただけでなく、中国にわたって若き日の劉少奇とも交流したりした。活発に活動していた彼であるが、後に「その当時の私は、思想上の悩みにからんださまざまの幻滅や束縛の中で悶々の日を送っていた」(『桃太郎の母――ある文化史的研究――』「あとがき」、287ページ)と回想しているのは、彼がマルクス主義の思想と、社会主義的な運動から離れてから後の回想であるとはいえ、注目してよいことである。そしてそのような中で、「ただ一つ、…京大文学部のロシア語の講義だけが、私にとってはなにか憩いのオアシスのような親しみと魅力とをもちはじめたのである」(同上)と書いている。石田青年をとらえたのは、その授業を担当しているニコライ・ネフスキーという「若い学者の人柄と学識」(同上)であった。

 「生粋の大ロシア人だった先生の口をついて流れ出る、完全な日本語にこなされた数々の話題は、当時の私にとってはことごとく新鮮で香り高いものであった。初歩の文法的な手ほどきもそこそこに、私たちにはすぐゴーゴリやチェホフの短編があたえられた。「トゥルゲネフは古いですよ。いま読むと文章も古いし、思想も古い。そこへ行くとゴーゴリは、いつまでたっても新しいんです」」(『桃太郎の母』、287-288ページ)

 明治以来、日本の読者に親しまれてきたツルゲーネフを「古い」と言い切り、ゴーゴリを「いつまでたっても新しい」という文学観は、かなり風変わりなものではないかと思う。しかし、本物のロシア人、ロシアの学校と大学で学んで、ロシア的な教養を身に着けた教師の発言ということで、石田は比較的素直にネフスキーの意見を受け入れたのであろう。とはいうものの、ネフスキーは文学者ではないし、ソヴィエトにおける文学界の動向や、亡命ロシア人たちの文学的な動きのどちらからも距離を置いて文学に接していたはずであるから、その文学観には主観的な要素が強く紛れ込んでいたと考えた方がいいと思う。そして、彼がロシア革命後に花開いたさまざまな文学理論とも、例えばナボコフに見られる亡命ロシア人たちの文学創造とも無縁で、どちらの立場を取ろうともしなかったことは、日本におけるロシア文学研究にとってというよりも、彼自身にとって不幸な結果をもたらしたように思われる。

 石田は、さらに続けて、次のように書いている:「私は十一月革命前から日本に留学に来ていたというこのロシアの学者が、どういう思想的な立場にあるのかも知らなかったし、ネフさん――私たちは彼をそうした愛称で呼んでいた――をめぐる集まりでは、政治的な話題など、一度も出たこともなければ出したこともない。」(289ページ) ところが、1925年に石田は北京でばったりネフスキーに出会う。石田は政治的な目的で中国にわたっていたのだが、ネフスキーは言語研究のために中国を訪問していたのであった。その後、石田は学生運動に対する弾圧の結果として逮捕され、大学も退学するが、ロシア語の勉強を続けたくて、ネフスキーのもとを訪問する。どんな反応を示されるか多少の不安をもって出かけた石田をネフスキーは温かく迎える。
「日本もバカなことをしますねえ。なんてバカな話でしょう。こんなことをしていると今にロシアみたいになりますよ。私たちペテルブルク大学にいた頃ったら、まるで憲兵に護送されながら学校に通ったようなもんでしたからねえ。」(291ページ)

 「その後幾星霜、長い空白を隔てた後、私は初めて、学生時代にネフスキー先生から興味を呼び起こされた文化人類学的な研究に手を染めるようになった」(291ページ)と、石田は書いている。彼から柳田や折口の名を聞いていた石田は、その後、ウィーン大学に留学して「民族学」を研究し、戦後、民族学→文化人類学者として活躍する。石田は彼の研究をネフスキーに知らせようと思っていたのだが、彼がウィーンに留学した1937年ごろに、それ以前にソヴィエト・ロシアに期待を寄せて帰国していたネフスキーはスパイの容疑を受けて、処刑されていたのである。

 柳田の『故郷七十年』で回想されているもう1人のロシア人エリセーエフ(柳田は「エリセーフ」と書いている)は、ロシア革命後フランス、その後アメリカにわたり、とくにアメリカでは多くの日本研究者を育てた。転変はあるものの、実りのある人生を送ったのに対し、ネフスキーの人生は、少なくともその結末を見れば、悲惨極まりない。しかし、研究者としてみた場合には、ネフスキーの業績は決して小さいものではないのである。柳田は、彼の功績として、「オシラサマ」の研究、西夏文字の研究をはじめとする東アジア諸言語の研究、沖縄の言語の研究をあげている。西夏文字の研究は西田龍雄による解読がなされて、影が薄くなったかもしれないが、その他の研究は資料的な価値だけでも極めて大きなものではないかと思う。

 とはいえ、既に書いたことだが、ネフスキーが同時代のロシア人たちの思想的な動きに今一つ関心を寄せなかったように思われるのは残念なことである。ロシア革命直後のソヴィエトにおける学術研究の新しい動き、その中でもフォークロアの研究に新しい視角をもたらしたヴラディミール・プロップの研究などは、ネフスキーの視野に入っていなかったように思われるし、プロップがその研究の素材として用いたアファナシェフの民話集についても、石田の回想中には言及がなされていない。もし柳田がこの動きを知っていたら、どんな反応を示したかを想像してみるだけでも楽しい。

 もう一つ気になっているのは、鶴見太郎さんの著書『柳田国男とその弟子たち』を詳しく読めばわかることかもしれないが、戦前のマルクス主義の運動に参加した人々の中で、運動の退潮後、柳田国男と民俗学の研究に接近したのは、福本和夫とその影響を強く受けた人々(福本自身と石田を含む)であるということで、どうしてそうなったのかは、これから考えていきたいと思っている。 
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