『太平記』(142)

1月22日(日)晴れ、比較的温暖。

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入ろうとした。兵力において劣る新田軍は、味方の軍勢の一部を足利方に紛れ込ませておいて、三方から京へ攻め寄せた。

 義貞の計略に気付かぬまま、足利尊氏は高師泰に将軍塚の上から都を窺っている宮方の兵を追い散らすように命じた。この方面には義貞の弟である脇屋義助、新田一族の堀口貞満、大館氏明、結城宗広らの武将が3,000余騎を率いて向かっていたのであるが、敵の襲来を知って、この軍勢の中から、弓を射るのに優れている武士たち600人を選び出し、馬からおろして、山の木を立の代わりにして、その陰から次々に矢をつがえて、どんどん放たせた。師泰の率いる武蔵・相模の武士たちは、ただでさえ山の斜面を登るのがつらくて苦労しているのに加え、上の方から射てくる矢に鎧を通されたり、馬を射られて倒されたりしたので、なかなか進むことができない。こうして、足利方が進むのをためらっている様子を見て、得たり賢し(してやったり)と、宮方の武士たちは一斉に刀を抜いて一気に攻め寄せたので、師泰の軍勢はそれを防ぐことができず、五条河原へと退却した。この戦闘で、足利方の有力な武士である杉原判官と曽我次郎左衛門が戦死した。

 そのまま京都の市中まで深追いをすると、宮方の武士たちが小勢であることが分かって、不利になるので、宮方の兵は山を下らずに東山にとどまって、その数を見せない。搦め手から戦闘が始まると、大手がそれに合わせて鬨の声をあげて、数的劣勢を隠そうとし続けた。『太平記』の作者は「官軍2万余騎と将軍の80万騎と、入れ替へ入れ替へ、天地を響かしてぞ戦うたる」(第二分冊、457ページ)と記しているが、宮方の方の2万騎はあるいは正しいかもしれないが、足利方の80万騎は多すぎる。「漢楚の八ヶ年の戦ひを一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になすとも、なほこれには及ぶべからず。」(同上、漢の劉邦とその項羽が8か年にわたって戦った際の両軍の軍勢を全部一時に集め、呉王夫差と越王句践が30度戦った際の両軍の兵を百倍にしても、これには及ばないだろう)というのも大げさな表現である。

 攻め寄せている新田勢は兵力においては劣るが、一致団結していて、攻め寄せるときは一度にさっと攻め寄せ、敵を攻撃し、退却する時は負傷者を中心に置いて、静かに退却する。一方守る法の足利方は、兵力は多いが、全体としての協調がなく、攻撃する時はバラバラで、思いもい勝手に戦っているので、正午ごろから午後7時ごろまでの65度の戦闘に、寄せ手の官軍がすべて勝利を収めたのであった。

 そうはいっても、足利方は負けてもその兵力が減ることなく、逃げても戦場から離脱するところまではいかず、当てもなく市中にとどまっていたところに、義貞の計略で敵に紛れ込んでいた50人単位の武士たちが、尊氏の前後左右に新田家の紋所である中黒の端を差し上げて、かく乱のための戦闘を始めた。こうなるとどちらが敵、どちらが味方であるかわからない。混乱に陥った足利軍はあちこちにわめき叫んで、同士討ちをはじめてしまう。尊氏をはじめ、吉良、石塔、高、上杉の武将たちは味方の武士たちが敵と一緒になって、後ろから矢を射かけてくるような混乱に陥ったと自覚したので、お互いに心を許さず用心しあって、高、上杉の軍勢は山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に向かって退却し、尊氏をはじめ、吉良、石塔、仁木、細川の人々は丹波路へと退却したのであった。

 宮方の軍はいよいよ勝ち戦の勢いに乗って、短兵急に攻め寄せていく。尊氏は、もはやこれまでと思ったのか、梅津(京都市右京区梅津)、桂川のあたりでは、鎧の草摺りを畳みあげて、腹を切ろうと腰の刀を抜くことが3度もあったが、運が強かったのであろうか、日が暮れて、追っては桂川のあたりから引き返したので、尊氏も、その率いている軍勢も、しばらく松尾(西京区松尾)、葉室(西京区山田は室町)に落ち着いて、休養を取ったのであった。

 さて、三井寺の攻防ではいいところを見せられなかった足利方の細川定禅は、自らが率いてきた四国の兵たちに向かって、次のように述べた。戦の勝負は時の運によることなので、負けたのは恥にはならないが、今日の敗戦は三井寺の合戦から始まったので、そこでの敗戦は当事者であったわれわれの失敗であり、非難を受けてもしかたのないところである。そこで、ここでは他の軍勢の助けを借りず、一花咲かせて、天下の非難を封じたいと思う。
 私が推測するところでは、新田の軍勢は終日の合戦にくたびれて、臨機応変に敵に対応できない状態になっているだろう。そのほかの敵兵たちは、都の人々の財宝に目をつけて、略奪に夢中になり、ばらばらになっているだろう。そのうえ、我々の味方である赤松貞範が、小勢しか引き連れぬまま下り松(京都市左京区一乗寺下り松町)で敵軍の中に孤立している。彼をむざむざと戦死させるのも悔しい限りである。そこで、蓮台野(北区にある船岡山の西の野原)から北白川に回って、赤松の軍勢と合流し、新田の軍勢に一泡吹かせてやろうではないかと提案すると、彼に従っていた讃岐の藤原氏(詫間・香西など)、橘氏(寒川・三木など)、大伴氏の武士たちは、賛同した。

 定禅は大いに喜んで、300余騎の兵を引き連れて、北野天満宮の北の一帯を過ぎて、上賀茂を経て、ひそかに北白川へと回った。糺の森のあたりで、300余騎を十峰に分けて、下り松、藪里、静原、松ケ崎、中賀茂の30か所以上に火をかけて、そこからすぐに立ち去り、一乗、二条の間で、三か所で鬨の声をあげた。定禅が推測していたように、新田方の軍勢は京都市内と、鴨川の以東に分散していて、一か所に集まっている兵は少なかったので、義貞と義助はふりを悟り、坂本を目指して引き返そうとするところに、統率が取れないままに退却を始めたので、北白川、粟田口辺で新田義貞の執事である船田義昌、大館左近蔵人、由良三郎左衛門、高田七郎左衛門以下数百騎が戦死してしまった。定禅は尊氏にこの戦果を知らせ、その知らせを受けて、山陽道・山陰道に退却をはじめていた足利方の軍勢がまた京都に戻ってきた。

 『太平記』の作者は義貞が兵力において劣勢であったにもかかわらず、その知略で足利軍を破り、敗走し始めた足利軍の中で細川定禅が反撃の謀を成功させてことをともに賞賛している。どちらも少数の兵力で、多数の軍勢を追い散らしたという点で共通するというわけである。足利方の軍勢は京都市内に戻ったが、依然として足並みがそろわないという弱点は克服されていないし、今回の戦闘には楠正成や名和長年、北畠顕家らは参戦しておらず、宮方の兵力はまだ残っている。いつでも東山方面から京都市内を窺うことのできる兵力を保持している限り、宮方は希望を持つことができるのである。とは言うものの、義貞の右腕であった船田義昌がここで戦死してしまったのは、宮方にとっては痛い損失であった。 
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