呉座勇一『応仁の乱』(6)

1月20日(金)曇り、時々小雨

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。1467年は今年から数えて550年前ということになる。呉座さんのこの著書は応仁の乱の経緯を奈良・興福寺の大乗院の院主であった経覚(1395-1473)の日記『経覚私要抄』と尋尊(1430-1508)の日記『大乗院寺社雑事記』を史料としてたどるものである。大和の国は、当時事実上興福寺の支配下にあったが、その中で大乗院と一乗院という摂関家と結びついた門跡が主導権を争い、興福寺に属する武装勢力である衆徒と、興福寺と関係の深い春日大社に属する国民とがこの戦いの実働部隊として力を伸ばし、さらに外部の武士たちと結びついて事態をより複雑なものとしていた。
 大和に隣接する河内の守護は畠山氏であったが、その家督をめぐって畠山政長と義就とが争い、大和の北部に勢力を持つ一乗院方衆徒の筒井は政長、南部に勢力を持つ大乗院方国民の越智は義就を支持して、この争いと深くかかわった。
 寛正5年(1464)に当時の将軍足利義政の弟の義視が将軍職の後継者となるべく還俗するが、翌年、義政に実子の義尚が生まれたことで混乱が生じる。伊勢貞親を中心とする義政の側近グループは義政が将軍を続けて、そのまま義尚に将軍職を譲ることを望み、斯波義敏の管領就任を画策していた。一方、山名宗全を中心とするグループは義視の将軍就任と義政の引退、宗全の娘婿である斯波義廉の管領就任を望んでいた。最後に、細川勝元を中心とするグループは義政の後に義視が将軍職に就き、さらに義尚に将軍を譲るという方向を考えていた。当時の管領である畠山政長は勝元の影響下にあった。
 文正元年(1466)7月に義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に変えた。これに対し、宗全と勝元はともに反発する。その一方で、大和の国に逼塞していた畠山義就が上洛の動きを見せた。9月に義視に謀叛の疑いがあると貞親が義政に讒言したことから政変が起き、事態は二転三転したが、結局義政が将軍を続け、伊勢貞親派は幕府中枢から追放された。この過程で宗全と勝元は共闘したが、主導権を握ったのは勝元であった。事態の推移に不満を持った山名宗全は政権奪取を意図して、12月に畠山義就に上洛を呼びかける。いったん、上洛の動きを見せていた義就であったが、その後の政局の動きから上洛をあきらめて、大和、河内における勢力拡大に専念していたのである。

 文正元年12月26日に軍勢を率いて上洛した畠山義就は京都北部の千本釈迦堂(大報恩寺)に陣を構えた。義就の背後には山名宗全、斯波義廉がいた。畠山政長は自邸の防備を固め、赤松政則・六角政高の軍勢とともに立てこもった。さらに細川勝元、京極持清が政長を支援した。
 将軍義政は義就の無断上洛に怒り、政長を支持した。翌文正2年の元日、管領畠山政長が将軍御所(花の御所)に参り、食膳を供してもてなす儀式を行った。ところが翌2日、義政は政長邸への御成を中止し、御所で義就と対面した。毎年正月2日に将軍が管領邸で饗応を受けるのは恒例行事であり、これを「御成始」という。さらに正月5日は毎年、畠山邸への御成の日だったが、義政は政長ではなく、義就への御成を行った。義就は山名宗全の屋敷を借りて義政を迎えた。さらに6日、義政は政長を管領から罷免し、屋敷を義就に引き渡すように命じた。8日には斯波義廉が管領に任じられた。
 当初、政長を支持していた義政が義就支持に転じたのは義就上洛によって山名方が軍事的優位に立ったことを悟ったからであろうと呉座さんは推測している。そこで15日、畠山政長・細川勝元・京極持清・赤松政則らは軍勢を率いて将軍御所に押し寄せ、義政から強引に義就討伐命令を引き出そうと計画した(このような諸大名による将軍脅迫を「御所巻」という)。ところがこの企みは宗全の養女である勝元夫人から山名方に漏れ、山名宗全・斯波義廉・畠山義就が警備の名目で御所を占拠した。そこで勝元らは足利義視の擁立を計ったが、これも宗全に察知され、16日、宗全は義視ら足利一族を将軍御所に移した。

 失脚した政長は、これまでの例に従って京都を去り、分国で謹慎するであろうという見通しに反して、17日夜、屋敷に自ら火を放って北上、糺河原を経由して、18日の明け方に将軍御所北東の上御霊社(現在の御霊神社)に陣を取った。京極持清は御所の
南井、細川勝元は御所の西に布陣し、宗全らが立て籠もる御所を包囲した。
 合戦に巻き込まれることを恐れた足利義政は、山名・細川に対し両畠山への軍事介入を禁じた。そうしておいて勝った方を支持しようというのであるが、「これまでの畠山氏内訌においても、義政は基本的に優勢な側の味方であった。おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである。」(86ページ)
 18日の夕刻、畠山政長が布陣した上御霊社に畠山義就の軍勢が押しかけ、勝元は義政の命令に従って政長に加勢しなかったが、宗全・斯波義廉が義就に加勢したために義就方の勝利に終わり、政長は勝元に匿われた。宗全は首尾よく政権を奪取したが、細川勝元との間に決定的な溝ができてしまった。

 御霊合戦の後、細川方・山名方の間で小競り合いが続くが、徐々に平穏を取り戻していった。3月5日、京都での戦乱(御霊合戦)という凶事が発生した文正という年号は縁起が悪いということで、応仁に改元された。4月10日、日野勝光(日野富子の兄)の屋敷に後花園上皇・足利義政・同義視らが招かれ、和歌会が行われた。同23日に足利義政が管領斯波義廉邸に御成し、日野富子・足利義視も随行した。「朝廷・幕府の儀式・行事は滞りなく進められており、人々は大乱の到来をまったく予期していなかった。」(88ページ)

 ところが5月になると、全国各地で細川方が軍事行動を起こし、世情は騒然としてくる。 5月16日、細川勝元の家臣の池田充正が兵を率いて摂津から上洛した。20日には山名宗全・畠山義就・一色義直が管領斯波義廉邸に集まり、対策を協議した。
 応仁元年(1467)5月25日から経中の武士たちの動きがあわただしくなり、翌26日の午前中には武田信賢・細川成之が将軍御所の向かいにある一色義直の屋敷を襲い、屋敷に火をかけられた義直は山名宗全の屋敷に逃げ込んだ。この戦闘を皮切りに、細川方と山名方は全面衝突に入った。

 26日は終日、京都の各所で戦闘があり、所々に火が放たれ、鬨の声が上がり、双方とも戦死者・戦傷者は数えきれないほどであったが、決着はつかず、合戦は翌日まで持ち越された。双方の放火作戦によって京都北部(船岡山以南・二条以北)の武家・公家の邸宅や寺院の多くが焼亡した。

 5月28日、将軍足利義政は勝元と宗全に停戦命令を発し、この停戦命令が功を奏して、28日以降は矢戦や放火がある程度で大きな合戦はなかった。義政は正月に宗全に御所を乗っ取られたことを教訓にして、御所の警備を厳重にしていたが、6月1日に勝元が義政に将軍旗と山名宗全治罰の綸旨の拝領を願い出た。また足利義視を山名討伐軍の大将に任命してほしいとも要請したようである。文正の政変以降、義視は勝元に接近していたからである。
 山名宗全と内通していた日野勝光の反対にもかかわらず、義政は6月3日に旗を勝元に与えた。義政が中立の態度を変えたのは、勝元らの圧迫もあったが、弟である足利義視に押し切られた側面が大きいと呉座さんは推測している。義視はこれを彼の指導力を示す絶好の機会と考えたのではないかとも推測している。「将軍である足利義政が中立性を失ったことで、戦争を調停する存在は消滅した。「賊軍」の烙印を押した山名方を速やかに鎮圧しない限り、戦争の早期決着は不可能になったのである。」(82ページ)

 やっと第3章「大乱勃発」の最初の部分を紹介できた。戦いのさらなる局面と、長期化の理由については次回以降で見ていく。利害関係が複雑に入り組み、必ずしも人間的に憎みあっているわけではないのに、対決を余儀なくされるという場面もあるようである。鎌倉幕府の執権に相当する室町幕府の管領に就任できるのは足利将軍家の一族である細川・斯波・畠山の3つの家柄の人物に限られていたので、山名宗全は政権を握っても管領にはなれず、この3つの家柄の中で自分の息のかかった人物を管領にするよりほかの方策は取れなかったのである。
 山名氏はもともと、新田氏の一族で、建武新政の時期には新田義貞に従っていた。『太平記』の中で、どのあたりで山名氏が新田氏から離れて、足利氏に近づくのかというのは注目点の1つである。南北朝時代の終わりごろ、時氏のころには一族合わせて11か国の守護職を持ち、六分の一殿と呼ばれる権勢をふるったが、時氏の死後、その勢力を恐れた将軍義満は、山名氏の内紛を利用して、明徳の乱(1391)を起こし、その勢力を削減した。その後、この書物でも取り上げられていた嘉吉の乱によって、勢力を取り戻し、山名宗全は幕府の有力大名の1人に数えられることになる。
 依然、上野一の宮である貫前(ぬきさき)神社に出かけようと、高崎から上信電鉄の電車に乗っていたら、山名という駅があり、近くに山名八幡という神社が見えたので、ここが山名氏発祥の地なのかとちょっとした感慨にふけったことがある。
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No title

はじめまして。
いつも楽しい話、ためになる話を有難うございます。

自分はけっこう南北朝時代は好きなんですよ。たぶん吉川英治先生の私本太平記の影響かと思いますが。中学時代に読破。
戦前まで極悪人ととらえられていた足利尊氏を世に出してくれましたからね。
それと真田広之主演のNHK大河ドラマ。ミーハーの自分としては真田の好演にほれ込み、ますます尊氏が好きになりました。
好きが高じて当時栃木県足利市に設けられたオープンセットを訪ね、撮影を見に行ったこともあったんですよ。
このほか楠木正成、佐々木道誉、新田義貞等々、魅力ある武将ぞろいでこの時代飽きませんね。

Re: No title

> はじめまして。
> いつも楽しい話、ためになる話を有難うございます。
>
> 自分はけっこう南北朝時代は好きなんですよ。たぶん吉川英治先生の私本太平記の影響かと思いますが。中学時代に読破。
> 戦前まで極悪人ととらえられていた足利尊氏を世に出してくれましたからね。
> それと真田広之主演のNHK大河ドラマ。ミーハーの自分としては真田の好演にほれ込み、ますます尊氏が好きになりました。
> 好きが高じて当時栃木県足利市に設けられたオープンセットを訪ね、撮影を見に行ったこともあったんですよ。
> このほか楠木正成、佐々木道誉、新田義貞等々、魅力ある武将ぞろいでこの時代飽きませんね。

コメント、有難うございます。返事が遅れてすみません。
中学時代に『私本太平記』を読んだというのはすごいですね。この小説が毎日新聞に連載されていたころに、私は中学生だったか、高校生だったか…。私の伯父は日本史学者だったのですが、遺品を調べていたら、吉川英治の手紙が出てきたそうです。吉川は、独学で作家になったのですが、その分、いろいろな学者に意見を求めたりして、歴史をよく調べていたようです。以前にも書きましたが、『私本太平記』は、特に戦後一世を風靡した林屋辰三郎の歴史観が色濃く反映されているというのが私の考えです。
もう一つ興味深いのは、尊氏の正室である赤橋登子についてかなり詳しく書いていることで、そこがもともとの『太平記』とは違うところではないかと思います(登子の他に、直冬の母親として造形した藤夜叉という架空の女性を登場させているのも注目すべき工夫ですが…)。源頼朝の正室・政子は「尼将軍」などと呼ばれ、歴史上に名を残してきましたが、彼女と頼朝の間の子どもはあまり出来が良くない。それに比べると尊氏と登子の間の子どもは義詮・基氏ともにそこそこ出来がいいので、その点に興味があります(ほかにも出家した子どもがいるようです)。護良親王の最期に立ち会った南の御方とか、西園寺公宗の妻の日野名子とか、『太平記』の中に少しだけ顔をのぞかせている女性たちを見ても、自分たちの運命に敢然と立ち向かう気概を見せていて、貴族の出身である彼女たちだけでなく、武家の女性も含めて、この時代の女性の生き方というのにはいろいろと考えさせられるところがあり、そういうことも吉川の視野に入っていたのだろうと思います。
吉川の『私本太平記』は楠正成の戦死まで、山岡荘八の『新太平記』は新田義貞の死までで終わっているのですが、もともとの『太平記』は主要登場人物がみんな死んでしまって、もはや物語としてのまとまりがなくなって、訳が分からなくなりながら、義詮が細川頼之に後事を託して死ぬところまで続くので、何とかそこまで頑張りたいと思っております。いろいろ勝手なことを書き散らし、コメントに対する返事にはなっていないかもしれませんが、今後ともよろしくお付き合いください。
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