吉田健一「国籍がない大使の話」

1月17日(火)晴れ

 吉田健一『酒に吞まれた頭』の最初に収められている短編小説「国籍がない大使の話」は、終戦間もない日本を舞台に、作者の分身らしい語り手が、えたいの知れない国際交流をするという設定で、作者の何らかの経験を踏まえてはいるのだろうが、<国籍がない大使>というような存在があり得ないことを考えればわかるように、著者独特の文明批評を織り込んだ、まったくの作り話である。

 物語の芯になるのはどこかの国の大使らしい外国人クレストマチオ・デル・ロッコ・ヴァッソ・イ・ガル・モッポという人物で、彼を語り手の知り合いである康さんと平塚の市会議員の辻堂さん(これは言葉の遊びであろう)という老人とが鎌倉に案内しようとする。辻堂さんは独特の深呼吸の信奉者で、これを海外に普及するための国際会議に出席しようとして、その便宜を図るためにモッポ氏に近づこうとしているのである。語り手は、連れの2人が一生懸命歴史の本を読んで仕入れてきた知識を、モッポ氏に対するサービスのつもりでしゃべっているのを、インスタントで通訳する。
 「だいたい、ヨリトモだのマサコだのと、日本名を外国人と外国語で話している時に言うこと程、日本に来て日本語で話すのが当たり前なのに、、お前が知らないから仕方ないのだという反感に続いて、それを押し殺していなければならないための屈辱的な気持ちにさせられることはない。」(19ページ)という入り組んだ気持ちで、通訳をしながら、鶴岡八幡宮までやってくる。

 「コノ処女ノ髪ノ木ハ八百年昔カラ生エテイテ、クギョートイウ人ガサネトモトイウ三番目ノカマクラショーグンヲ、イイエヨリトーモデハアリマセン。サネトーモデス。……」(20ページ)
 ここで「処女の髪の木」というのは英語でmaiden hair treeというのをそのまま日本語に移し替えた言い方で、イチョウのことである。わざとこういう書き方をすることで、吉田は通訳という仕事のむずかしさを語っているように思われる(イチョウについて英語では、gingko あるいはginkgoという言い方もある)。単に言葉を言い換えるだけではない(そもそも欧米にはイチョウという植物は生育していないのである)。もっと別の問題がある。
 吉田は別のエッセーで、確かスコットランドを訪問した際に、自分には興味のないようなスコットランドの歴史上の王様についての説明を長々と聞かされた時の苦痛を語っていたが、その気持ちはよくわかるし、たぶん、外国人が日本の歴史について説明を受けるときにも同じような苦痛を感じるだろうということも想像できる。しかし、康さんと辻堂老人にはそのような想像力がない。間に立った通訳が困り果てるわけである。

 その直後に、「その昔、ピサローに率いられてペルーに攻め入ったスペイン軍の宣教師がペルー人に改宗を勧めて説教した折、通訳は『三位一体と申して、三人の神があり、そして一人の神があり、それゆえに合計四人である』といったそうである。」(21ページ)という逸話を物語る。キリスト教の神について神学的な理解がない通訳には、宣教師の言葉を正確に伝えることはできないのである。物語はさらに続いていくのだが、異文化交流の難しさが指摘されているところで紹介をやめておこう。
 欧米の文化をある程度まで理解せずに、言葉だけを覚えても通訳はできない。しかし、そのある程度とはどの程度をいうのであろうか。吉田は彼の時代の人間としては最もよく欧米の文化を理解していた人であろうが、それでも通訳という仕事にさじを投げていたようである。戦後の文化的な混乱に、スペインの「新大陸征服」時代の逸話を重ね合わせているところに、吉田の同時代への批評を認めるべきであろう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR