『太平記』(141)

1月15日(日)曇りのち晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家の率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の率いる足利方の軍勢と三井寺の衆徒の連合軍を追い落として伽藍に火をかけた。このため、藤原秀郷が竜宮城から持ち帰ったと伝えられる三井寺の梵鐘も焼け落ちてしまった。

 宮方の軍勢は三井寺の敵を難なく打ち破ったので、北畠顕家卿は東北・関東地方から東海道を西に上ってきて坂本に到着して、すぐに戦いに参加したために人馬は疲れている。一両日休んで、英気を養い、これからの戦いに備えるといって、坂本へと2万余騎の軍勢を引き上げた。〔北畠顕家は坂本に到着した時も、人馬を休めてから攻撃を始めることを主張していた。これに対し、もともと宮方の軍勢は少ないので、一気に攻めた方が有利であるという意見が採用されたのであった。〕
 新田義貞も、同じように坂本へ帰ろうとしたところ、彼の執事である船田義昌の一族である船田経政が馬を遮って次のように述べた。合戦の勝利を得るには、勝ちに乗る時、逃げていくのを追うよりほかの手段はないと思う。この合戦で生き延びて、馬を捨て、武具を脱ぎ捨てて、命からがら落ちのびていく敵を追いかけて、京都市内に押し寄せていけば、逃げて臆病風に吹かれている多数の武士たちに影響されて、残りの敵も戦う気力を失うのではなかろうか。そういう状態なので、官軍は敵の中に紛れ込んで、軍勢の多少を見せず(宮方の方が足利方に比べて軍勢が少ないことを隠し)、こちらの方では火をかけ、あちらの方では時の声をあげるというように、縦横無碍に敵をかく乱すれば、足利兄弟のそばに近づいて、勝負を決せずにはいられないだろう。逃げていく敵は、それほどの距離にはいないと思う。是非とも追いかけてみてはどうだろうか。
 これを聞いて義貞は、私もそのように考えていたところに、よく言ってくれた。ただちに追いかけようと、または他を直し、馬を進めて、新田一族50余人、その軍勢は合わせて3万余騎、馬に鞭を当てて、敗走する敵を追いかけていく。〔これまでも大体においてそうだったが、足利方の方が軍勢の数は多いけれども、士気は宮方の方が高いのである。もっとも、『太平記』の作者が記しているように、足利方の軍勢が80万余騎であったというのはどう考えても多すぎる。〕

 足利方は、宮方の軍勢のかなり前方を逃げているはずなのであるが、逃げているのは大勢の疲れ武者で、心は逸るけれどもなかなか足が進まない、追いかけるのは小勢ではあるが血気にはやった者たち、敵を追うとなると一層馬の足も早まってくるので、山科のあたりで追いついてしまった。新田の軍勢の由良、長浜、吉江、高橋が真っ先に進んで追っていたが、逃げているとはいえ敵の方が軍勢が多く侮ってはいけないというので、開けた場所で敵が大軍を引き返して応戦しそうなところでは、それほどは追いつめて敵を追わず、遠矢を射かけ射かけ、鬨の声をあげて威嚇する。道が狭くなっていて、しかも敵が戻ってくるのが難しい山道では、高いところから馬を懸けおろして、隙間もなく射落とし、切り伏せたので、足利方は反撃できず、我先に逃げていくばかりである。

 足利尊氏は三井寺で合戦が始まったという知らせを受けたのち、黒煙が上がるのを見て、どうやら味方が負け戦のようである、急いで援軍を送ろうと、三条河原に出て、勢揃えを行った。そうこうしているうちに、粟田口から、土煙をあげて、足利方の軍勢4・5万騎が敗走してきた。かなり手痛い負け戦であったと見えて、ほとんどみなが軽傷を負い、鎧の袖や兜の吹き替え氏に矢の3筋4筋が突き刺さっていないというものはいないほどであった。〔これまでの合戦の様子を読んでいると、新田勢が弓矢を活用しているのがよくわかる。『平家物語』に登場する那須与一のように、北関東には弓矢に秀でた武士が多かったということであろうか。〕

 一方、新田義貞は2万3千余騎の軍勢を三手に分けて、一手を将軍塚(京都市東山区粟田口花頂山町の華頂山上にある塚)の上にあげ、もう一手を真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の前から出動させ、もう一手を法勝寺(左京区岡崎法勝寺町にあった天台宗寺院)の後ろに向かわせて、二条河原に軍勢を進めて、合図の火をあげさせた。自らは花頂山に登って、敵の陣を見ると、北は糺の森から、南は七条河原まで、敵の軍勢が馬を隙間なく並べて密集して戦いに備えているのが分かる。

 義貞は、弓を杖にして立ち、命令を下した。敵の軍勢と味方とではその数がかなり違う。普通に戦うのでは勝ち目はなさそうだ。敵に顔を知られていない武士たちは、50騎ずつ隊伍を組んで、新田方の笠じるしをとり捨てて、旗をまいて敵の中に紛れ込み、しばらく機会を待て。将軍塚に上っている軍勢が、すでに戦闘を開始したと見たら、こちらも戦闘を開始するつもりである。そのときに、敵の中に紛れ込んだ武士たちは敵の前後左右に旗を差し上げて、敵陣をかく乱してほしい。そうすれば敵は慌てて同士討ちを始めるかもしれず、また退却する可能性も出てくるというのである。そして、たくましく強い兵50騎ずつを選び出して、26の一揆(武士団)がそれぞれ新田の中黒の紋を記した旗をまいて紋を隠し、笠符をとって袖の中に収め、三井寺から遅れて逃げてきた軍勢のふりをして、足利勢の中に加わる。

 敵方がこのような謀をめぐらしているとは、足利尊氏には思いもよらぬことであった。尊氏は主な武将たちに、新田は普段は平地での戦闘をこそ好むと聞いていたのに、山を後ろにして、すぐには攻め込んでこないのは、自分たちの軍勢が少ないことを敵に見せまいとしているに違いない。将軍塚の上に集まっている敵をそのままにして、いつまでも見上げていられるだろうかと、自分の執事である高師直の弟の師泰に、駆け上って蹴散らすように命令する。師泰はその命令に従って、武蔵、相模の軍勢2万余騎を率いて、双林寺(東山区の円山公園にある天台宗寺院、今は見る影もないが、昔は大寺院であった)と中霊山(東山区清閑寺霊山町にある山)から軍勢を二手に分けて東山を登っていく。

 数で勝ることで多少油断をしている足利方と、その数的劣勢をこれまでの勝利の経験と知略とで跳ね返そうとする宮方=新田方の戦いはこの後どのように展開するだろうか。今回登場する京都市内の地名は、私が大学→大学院時代を通じてなじんだものが多く、土地勘が働くので、読んでいて面白かった。前回、藤原秀郷のことを書いたが、柳田国男の『故郷七十年』の中に、柳田という姓の一族は藤原秀郷の子孫で、同じ秀郷流の宇都宮氏に仕えていたらしいと書かれている箇所があった。藤原秀郷が先祖だという言い伝えを持っている人たちはかなりの数に上るはずである。
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