呉座勇一『応仁の乱』(5)

1月13日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は、この戦乱の過程を奈良・興福寺大乗院の院主であった経覚(1395-1473)の日記『経覚私要抄』と同じく尋尊(1430-1508)の日記『大乗院寺社雑事記』を史料としてたどっていくものである。著者である呉座さんによると「経覚も尋尊も奈良で生活しており、彼らが入手する京都や地方に関する情報の中には不正確なものや噂、デマの類が少なくない。したがって、応仁の乱の全体的な構図や経過をつかむうえでは最適の史料とは言えない。しかし、経覚・尋尊という記主本人のみならず、彼らの周辺の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかがわかるという点で、二人の日記は他のどんな史料にも代え難い価値を有する」(7ページ)。
 大和の国は鎌倉時代以後、興福寺の支配下にあったが、興福寺の下には衆徒、また興福寺と一体の存在であった春日神社の下には国民という武装勢力があり、これらがお互いに勢力を争うだけでなく、外部の武士たちと結びついたために、事態はより複雑なものとなった。外部の武士たちの中で大和に最も大きな影響力を持っていたのは河内守護の畠山氏であり、その内紛が大和国内の親幕府的な一乗院方衆徒筒井氏と反幕府的な大乗院方国民の越智氏の戦いと結びついて、奈良は室町幕府の権力抗争に巻き込まれていく。
 これまで読んだところで、奈良が主な舞台となっていることから、畠山氏の家督をめぐる内紛がかなり詳しく描かれているが、そのほかに斯波氏など、室町幕府の有力大名の内部においても家督をめぐる争いがあったことも記されている。興福寺の荘園が越前にあったことで、越前の守護である斯波氏とも交渉の必要があったのである。〔この本の主題から外れるから書かれていないが、越前の二ノ宮である劒神社の神官が斯波氏の家臣となって尾張に派遣され、神社の所在地にちなんで織田を名乗ったのが、織田氏の始まりである。〕 よく指摘されているように、室町幕府は足利氏を中心にその一族が有力大名として支えている同族支配型の政権であったから、内部における力関係をうまく制御できないと、たちまち内訌が起きる危険を常に抱えていたのである。

 さて、嘉吉元年(1441)に将軍義教が赤松氏に暗殺され(嘉吉の変)た後、その長男である千也茶丸(のちの義勝)が後を継ぐが、10歳で若死にしたため、その弟の三春(のちの義政)がさらにその後を継ぐ。
 寛正5年(1464)12月、足利義政の弟の浄土寺義尋が還俗し、義視と名乗った。〔この浄土寺というのは天台宗の門跡寺院で、現在の慈照寺(銀閣寺)の場所にあった。義政が山荘を営むにあたって現在の相国寺の近くに寺を移したが、その後廃絶し、享保年間に浄土院として左京区銀閣寺町に再建された。ただし、この浄土院は浄土宗の寺だそうで、五山送り火の一つである「大文字」を管理するところから、大文字寺とも呼ばれているという。それはいいけれども、左京区には浄土寺という地名もあるので、今ひとつすっきりしないところがある。〕
 しかし寛正6年11月、義視の元服直後に義政の実子(のちの義尚)が生まれたことで事態は複雑化する。

 この時期、幕府には3つの政治勢力があった。第1は伊勢貞親を中心とする義政の側近集団で、義尚の養育係であった貞親は義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことを望んでいた。また細川派でも山名派でもない斯波義敏が政界に復帰して幕府の管領職に就くことを求めていた(管領に就任できるのは、足利一族の斯波・畠山・細川の3家の人物に限られていた)。
 第二は、山名宗全をリーダーとする集団で、義視の将軍就任と義政の政界引退を望み、宗全の娘婿である斯波義廉の管領就任を考えていた。
 第三は細川勝元をリーダーとする集団で、伊勢貞親と山名宗全の中間に位置する立場をとっていた。彼らは義政→義視→義尚という既定路線を維持し、勝元に管領職を譲られた畠山政長が、勝元の影響下にある限り、その続投を望んでいた。
 この3つの政治勢力のせめぎあいの中で、幕府の決定はしばしば変転した。このことはしばしば義政の気まぐれによるものと解釈されてきたが、幕府のこの状態に起因すると考えるべきである。

 文正元年(1466)7月に、足利義政が貞親ら側近の申請に基づき斯波氏の家督を義廉から義敏に変える決定をしたが、これに対し、宗全は義廉を支持する動きを見せ、同時に貞親が細川勝元と対立していた大内政弘を赦免したため、勝元は不満の意を示した。
 宗全は分国から軍勢を呼び寄せ、大和に逼塞していた畠山義就が動き出す。この動きは従来、宗全らの軍事行動に呼応したものと考えられてきたが、呉座さんは貞親ら義政側近との連携を目指していたのではないかと推測する。しかし、貞親が当てにしていた畠山義就、大内政弘が上洛する前に、山名と細川の共闘体制が成立してしまう。
 9月5日に、貞親は義視が義政に謀叛を企てて居ると讒言し、それを信じた義政は義視を誅殺しようとした。義視は宗全、次いで勝元に助けを求め、翌6日、山名・細川ら諸大名の抗議により伊勢貞親、斯波義敏らは失脚する。これを文正の政変という。

 この政変により、細川勝元邸に入った義視が事実上の将軍として政務を行い、宗全と勝元の二大大名が「大名頭」として義視を支える暫定政権が成立した。ところが11日、義政は義視に害意のないことを誓い、義政は側近たちにすべての罪を擦り付けることで政務に復帰した。義政の復帰を陰で主導していたのは勝元で、義視を将軍にしようとした宗全の思惑は外れた。呉座さんは、このあたり、長年管領として幕政を動かしてきた勝元の政治的手腕が宗全よりも上手であったと論じている。

 さて、上洛と京都政界への復帰を目指していた畠山義就は幕府の管領となっていた政長方の軍を打ち破ったが、京都の情勢を見て、目標を大和での勢力拡大に切り替え、一定の戦果を得て、11月に中立を保っていた大乗院方国民の十市遠清の仲介により筒井派(政長派)と越智派(義就派)の和睦が成立する。
 和睦の背後にいたのは現状維持を求める細川勝元である。これに対し、主導権を握りたい山名宗全は義就と近づくことで、局面の打開を図る。

 いよいよ次回で、応仁の乱が始まることになる。乱の背景になった政治情勢についての呉座さんの記述が詳しく、しかも面白いので、予定していた以上の時間と記述量をかけてしまった。今後ともよろしくお付き合いください。
 この書物を面白くしている一つの理由は、登場する人物の言動から、その性格を割り出して、事件とのかかわりをより立体的に描き出していることである。例えば、今回の大和における畠山政長派と畠山義就派の戦闘をめぐり、経覚と尋尊の記述は対照的であるという。「経覚は刻々と変化する戦況を事細かに記している。古市胤栄ら事情通から聞いた話をそのまま書きつけている印象があり、生々しい。一方、尋尊は情報を整理し、全体の状況を俯瞰している。あたかも合戦の当事者であるかのように身を乗り出す経覚と、戦乱から距離をとる尋尊。記主の個性がはっきりと浮かび上がる。」(78-79ページ) 
 こうした個性の持ち主たちが、戦乱にどのように対処することになるのであろうか。それはまた次回以後に。
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