呉座勇一『応仁の乱』(4)

1月6日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。戦闘は主として京都の洛内で行われたが、その影響は全国に及んだ。この書物は大和の興福寺の大乗院の門主であった九条家出身の経覚の日記『経覚私要抄(本来は金偏の字が使われているが、こちらで代用。意味に違いはない)』と、その後に門主となった一条兼良の息である尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』とを主な史料として、応仁の乱の経緯をたどろうとするものである。
 鎌倉時代から南北朝時代、室町時代を通じて大和の国の事実上の守護は興福寺であったが、興福寺の主要な院家(いんげ)である門跡の大乗院と一乗院の対立により、興福寺別当の支配力は低下し、両門跡が実質的に守護の職権を行使した。しかしその支配は奈良と奈良盆地に限られ、さらに親室町幕府的な一乗院方の筒井と反幕府的な大乗院方越智という武士の対立が大和での紛争の基本的な軸となった。
 大乗院の門主であった経覚は幕府との良好な関係を活用して、興福寺支配、ひいては大和支配を目指し、幕府の権威を借りて大和国内の紛争を止めようとした。しかし、幕府軍の大和進駐は興福寺の威信を低下させ、紛争を拡大させる恐れがあるとして反対であった。将軍足利義教は当初大和における紛争への幕府の介入には消極的であったが、積極介入に踏み切ると、ますます戦火は拡大してしまい、経覚との対立が深まり、永享10年(1438)8月に経覚は大乗院の門主を解任される。
 ところが嘉吉元年(1441)5月、義教が赤松満祐・教康父子に殺されるという事件が起きる(嘉吉の変)。この機会に乗じて経覚は越智一派の軍事力を利用したため、それまでの調停者的な立場から、親越智・反筒井の旗を掲げることとなった。その後、越智と筒井の戦いは京都における幕府内の勢力争いとも関連して続くが、筒井一派が優勢になり、尋尊が大乗院の門主に返り咲き、一応の安定が生まれる。ところが、大和に影響力を持っていた河内守護の畠山氏の内部で内訌が起こり、筒井一派もこれに巻き込まれていくことになる。

 大乗院の門主を退き、隠棲していた経覚であるが、大乗院尋尊から多くの荘園をあてがわれ、そこからの収入で裕福な生活を送っていた。中でも重要な荘園が、越前国河口荘の細呂宜郷下方であった。経覚は荘園の経営を、越前守護代の甲斐常治に任せていたが、実際に現地を治めているのは代官の甲斐八郎五郎であり、経覚は側近の稲葉元次を派遣しては甲斐との交渉を行っていた。ところが長禄2年(1458)7月になると越前守護の斯波義敏と甲斐常治の間で合戦が起こり、それまで比較的順調に届いていた年貢が経覚のもとに届かなくなった。合戦は斯波義敏の勝利に終わり、荘園の役人たちが逃走してしまったため年貢の取り立てが出来なくなった。そこで尋尊と経覚は相談して、興福寺大乗院の直接支配に切り替えることとして、幕府の承認を得たが、越前北部を実効支配していた堀江利真がそれを拒否する。その背景には将軍家に次ぐ家格・実力を持っていた斯波氏を抑えるために、その家臣であるが直臣に近い扱いを受けていた甲斐氏を重用してきた足利将軍家の政策と、それに対する斯波氏の側の反発とがあった。こうして年貢収納はますます困難になったが、その結果、交渉能力に優れる経覚に活躍の場を再び与えることともなった。

 さて、畠山氏の内訌であるが、将軍義政とその側近の伊勢貞親は、家督を争っている義就と政長の両方の顔を立てようと、長禄4年(1460)9月に義就は隠居し、その猶子である政国に家督を譲ることを命じる。ところが義就はこの決定に対する不満を露骨に示し、京都にある家臣たちの屋敷を焼き払った。これに怒った義政は政長を家督と認めた。
 さらに義政は同年閏9月に、管領である細川勝元以下の諸大名と畿内周辺の有力武士に畠山義就討伐を命じた。ただし、これらの軍勢は積極的に義就方を攻撃する意欲はなかった。この月に細川勝元、筒井一派(とその興福寺における代表者である成身院光宣)の支持を受けている畠山政長が大和に入り、さらに河内への進出の足掛かりを固める。
 数に勝る畠山義就は、河内で迎え撃つのではなく逆に政長方を攻めるという積極策に転じて、10月10日の明け方に政長が籠もる龍田城を攻撃、別動隊は平群郡の嶋氏の城を攻撃した。筒井勢は完全に虚をつかれ、初動が遅れたが、結果的にそれが幸いして、筒井順永の手勢と成身院光宣の手勢が龍田城を攻める義就税の背後を襲ったため、挟撃する形となり、大勝を収めた。嶋城を攻めた義就方の別動隊も敗走した。こうして大和から義就方が一掃された。
 余計な話を書くが、ここで筒井方として出てくる嶋氏は島とも書き、その後も筒井氏の家臣として重きをなす。関ヶ原の戦いの際に石田三成の配下の武将として戦った島左近はこの一族である。

 敗走した畠山義就は南河内の嶽山城(現在の大阪府富田林市に所在)に立て籠もる。幕府は追討軍を派遣するが戦果はあがらず、結局成身院光宣や筒井順永らの大和衆の活躍で嶽山城は陥落、義就は高野山、さらに吉野へと逃れることになる。寛正4年(1463)、将軍義政の実母である日野重子が死去し、そのために恩赦が行われて、義就も赦免を受ける。しかし、家督は依然として政長であるので、そのまま吉野の奥の天川に潜伏、越智家栄の支援を受ける。他方、筒井順永は畠山政長との関係を深める。
 この時、斯波義敏もまた恩赦を受け、その結果、斯波氏の家督をめぐる争いも複雑なものとなる。

 このように畿内をはじめ各地で戦闘が続き、室町幕府を構成する有力大名の間でも家督をめぐる争いが起きている。このような乱世の様相は鎌倉時代の終わりごろからずっと続いているようである。なかなか、応仁の乱までたどり着かないが、年代をかなり詳しく書いておいたので、乱の勃発まで間があまりないところまでやってきたことがお分かりいただけると思う。
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR