夏目漱石『三四郎』(2)

1月4日(水)晴れ

 『三四郎』は明治の終わりごろに大学に入学してきた学生の「新しい空気」の中での経験を描いた小説である。この小説は明治41年(1908)の9月1日から11月29日まで117回にわたって『朝日新聞』に連載された。当時はまだ東京と京都に2つ帝国大学があるだけであった(そのほかの私立学校は「大学」と称していても、専門学校という法律的な位置づけであった)が、新しい学年は9月から始まることになっていて、それだけで身近な思いをして連載小説を読みふけった青年が少なくなかったはずである。
 高橋英夫は三四郎と同じく、明治41年に旧制高校を卒業して東京帝国大学に入学してきた学生として、一高から谷崎潤一郎、辰野隆、末広厳太郎、今井登志喜、落合太郎(Wikipediaによると、彼は京大卒である)、三四郎と同じく五高からは古荘四郎彦、京都の三高からは片山哲、仙台の二高からは斎藤勇らの名前を挙げている。政治家として首相にまでなった片山、銀行家の古荘、文学者の谷崎は別にして、その他の人物が欧米の学問の輸入を通して日本の学術の確立に努めた人々であることが確認できる。

 同じく高橋の指摘を借りると、明治時代の前半には教育制度が整備されず、したがってそこで学問を修めて旧制高校・帝国大学の教師になるものの学歴はまちまちであったが、三四郎の時代になってくると、学制は固定し、教員の地位にも安定、定着の気配が生じてくる。そこから新しい時代の教師が出現してくることになる(ただし、この時点ではまだ彼らの受けた教育はそれ以前の形の定まらないものであった)。漱石はそうした新しい教師の典型として広田先生を描いている。「近代国家を目指して休みなく進展を続ける時代から取り残されたような内面性、つまり「偉大なる暗闇」と呼ぶしかない内面性を秘めていることによって、広田萇はその時代の新しいタイプを逆説に体現していた。草創期の教師には見いだせなかった内面的な精神性がそこにはあった」(高橋、講談社文芸文庫版、34ページ)。高橋も述べているように、広田萇のモデルが誰かということになれば、漱石自身にほかならず、広田先生の言行は漱石自身の内面の反映であったと言えよう。しかし、この時期、特に旧制高校の教師には、外国の新しい動きを日本に紹介して、日本社会の進展に寄与するというのとは違う態度が現われていたのである。こうして、旧制一高の名物教師であった岩元禎や、二高の名物教師であった粟野健次郎が広田先生のモデルであるという伝説が出来上がってくる。岩元の場合、外国の文化の祖述・紹介という啓蒙的な活動よりも、むしろその外国の文化の問題点、その問題点の根幹となっている精神的な源流をあくまで極めようという態度が、現れてくる。ケーベルの学生であった岩元は、ケーベルから古典までさかのぼって哲学を掘り下げることを学び、哲学の新しい潮流を追うことよりも、ギリシア・ローマ(さらに注目すべきことには、中世ヨーロッパのスコラ)哲学の探求に従事したのであった。(しかも、そこから新しい学説を唱えるとか、書物を書くという活動をしなかったので、「偉大なる暗闇」といわれることになったのである。)

 さて、ここで問題になるのは、漱石の『三四郎』にも、鷗外の『青年』にもイプセン(この当時は「イブセン」と呼ばれていた)やニーチェへの言及があることである。日本は幕末・明治維新の時期から欧米の科学技術・思想文化を猛烈な勢いで学んで、欧米に追い付こうとしていたのだが、日本が迷いなく欧米の文物を輸入していた時期に、欧米の方では思想的な危機が進み始めていたのである。イプセンやニーチェはそのような思想的な危機を鋭敏に感じ取り、表現した知識人であったが、日本にはその「新しさ」だけが伝わり、「危機感」やその「危機感が根差すもの」への関心は十分なものではなかったように思われる。もっとも、岩元の「暗闇」あるいは沈黙をそのような危機感と結びつけて考えることは可能である。
 思想的な危機を感じた欧米の学者の中には、ショーペンハウアーに代表されるように東洋の思想に目を向けるものもいて、そこから日本でも東西思想の融合という考え、さらには東洋の西洋に対する精神的な優越という考えを抱くに至る人々が現われることになる。漱石の文学作品の中にもそういう考えの切れ端のようなものを探ることは可能である。

 『三四郎』の中で語られるイプセンが、おそらくは「人形の家」だけのイプセンであるのに対し、『青年』の中で鴎外は、(皮肉なことに漱石をモデルとした)坿石にイプセンのより多くの作品を引き合いに出して、文学論を展開させている。しかし、鴎外が作中人物に展開させるイプセンの思想はあくまで理想主義的・啓蒙的なところにとどまっていて、彼の社会批判や危機意識には及んでいない。危機意識という点から見れば、漱石の方が深いものをもっていたかもしれないのである(このあたり、もう少し彼の作品を読み直してみないけない)。
 思うに、鴎外は漱石よりも5歳年長で、明治初期の啓蒙思想を考えるときに、象徴的な年である明治6年に鷗外は11歳、漱石は6歳、社会の激動期にこの5歳の年齢差は大きいのである。しかも鷗外は早熟で年少にしてドイツに留学し、漱石はかなり年をとってから英国に留学した。だから2人の欧米体験には大きな違いが生まれても不思議はない。鷗外が欧米の日本に対する優越の意識や、啓蒙主義を脱することができなかったことの一因はこのようなところにあるのではないかと思う。
 だからといって、私は鷗外を軽んじろと言っているわけではない。『青年』の中で、登場人物の大村はこんなことを言う。「さて、これからの思想の発展というものは、僕は西洋にしかないと思う。Renaissanceという奴が東洋には無いね」(新潮文庫版、183ページ)。これは注目すべき断言である。鷗外は日本はまだまだ欧米から学ぶべきものがあると考えているが、それには十分な根拠が示されているのである。そう思いつつ、私は福本和夫の日本ルネサンス論などをまじめに取り上げる必要があるのかなと思い始めている。 
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