『太平記』(139)

12月30日(金)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。合議の結果、宮方はすぐに攻撃に移ることにした。三井寺を守っていた細川定禅、高重茂は京都に援軍を要請したが、相手方の援軍を軽視した尊氏は援軍を送らなかった。宮方は早朝から三井寺に攻め寄せたが、足利方の方が優勢で、かえって寺から打って出る勢いを示した。

 足利方の軍勢が湖岸伝いに進出してきたのを見た宮方の大将・新田義貞は3万騎の軍勢を一つにまとめて、足利方の軍勢を突き破って進もうとした。数に勝る足利方であったが、西の方は宮方の手で民家が焼き払われていて通ることができない、東の方の湖は深くて、歩いて進むことができない。それに和仁・堅田方面に陣を構えていた宮方の兵が、湖に船を浮かべ、そこから足利方の軍勢の側面に矢を放つ。このために、足利方は馬を前進させることも、後退させることも困難な状況に陥った。この機に乗じて宮方は一斉に攻めかかったので、細川定禅の率いる6万の軍勢は500騎ほどを失い、三井寺へと後退した。

 新田一族の額田、堀口、江田、大館の一隊が700余騎で、逃げる敵に追いすがって三井寺の中に入ろうとしたが、三井寺の僧兵たち500余人が木戸口で防ごうと必死に戦ったために、寄せてのうち100余人が堀端で戦死したので、後ろから軍勢が来るまでは進むことができず、しばし攻撃の手を休めることとなった。その間に、三井寺の方では城門を閉めてしまい、堀にかけた橋を引き上げた。義貞の弟の脇屋義助はこれを見て、ふがいない者たちの戦いぶりよ。木戸1つに支えられて、これほどの白1つを、攻め落とすことができないというのは情けない。栗生、篠塚はいないのか。あの木戸をとって引き破れ。畑、亘理はいないのか、切って入れと下知を下す。栗生左衛門、篠塚伊賀守、畑六郎左衛門、亘理新左衛門は新田軍の中でその名を知られた剛勇の士である。

 栗生、篠塚はこれを聞いて、馬から飛び降り、木戸を破ろうと走り寄って見ると、塀の前に深さ2丈(約6メートル)あまりの堀を掘って、両方の岸は屏風を立てたようになっているが、橋板を皆外して、橋げたばかりが立っている。2人がどうやって渡ろうかと辺りを見渡していると、幅が3尺(約90センチ)、長さ5,6丈(15~18メートル)もあるように見える大きな卒塔婆が2本あった。(確かに巨大である。)ここにこそ、絶好の橋板がある。卒塔婆を建てるのも、橋を渡すのも、功徳は同じことだ。これを橋にしようといいながら、2人は卒塔婆をえいと抜く。土の底5,6尺も掘り入れてあった大卒塔婆なので、あたりの土1,2丈ほどが抉り取られて、卒塔婆はたやすく抜けた。2人は2本の卒塔婆を軽々と担ぎ、堀の端に突き立てて、大声で自慢を始めた。「異国には烏獲(秦の武王が取り立てた大力の士)、樊噲(鴻門の会で、危うく楚の項羽に謀殺されかけた漢の高祖を救った豪傑)、わが国には和泉小次郎(1213年に源頼家の子千寿丸を擁して、和田氏と組んで北条氏をのぞこうとしたが失敗して、行方不明となった武士)、朝井名(朝比奈)三郎(義秀、和田義盛の3男で、1213年、父義盛が北条義時に叛した和田合戦で剛勇ぶりを発揮し、その後安房に逃れて行方不明になった豪傑)らの天下無双の大力という評判をとった豪傑たちがいるが、我々の力にどれだけ勝っているだろうか。傍若無人の大言を吐いていると思うものは、やってきて、こちらの力のほどを試してみよ」といいながら、2本の卒塔婆を同じように向かいの岸へと倒しかけた。卒塔婆の表面は平らで、2本並べたので、あたかも四条、五条の橋のようになった。

 畑六郎左衛門、亘理新左衛門の2人は、橋のたもとに進んで様子を見ていたが、紀行っちは橋渡しの斑岩(川に浮橋を掛ける役目をする検非違使)になりなさい。我々は合戦をしに出かけますと冗談を言いながら、2人ともに橋の上をさらさらと走りわたり、堀の上にあった逆茂木(防御の柵)をとって引きのけ、それぞれ木戸の脇にとりついた。木戸の中で守っている足利方の兵たちが三方の土狭間(射撃や物見のために土塀にあけた穴)から鑓、長刀を出して散々に突いてくるのを、亘理新左衛門、16まで奪ってとって捨てる。畑六郎左衛門はこれを見て、亘理殿、どきたまえ。この塀を引き破って続く人々に心安く合戦をさせようといいながら、走りかかって、右の足をあげ、木戸の閂のあたりを2度か3度踏みつけると、その踏み方が強かったので、閂が折れてしまい、木戸の扉も塀の柱も、同時にどうと倒れてしまい、防いでいた兵500人は散り散りになって逃げてしまった。

 一の木戸が破れたので、新田勢3万余騎が三井寺の寺内に駆け込み、あちこちに火をつけていく。これを見て、如意が岳で待機していた比叡山の僧兵たち2万余人が、山を下って、三井寺の三院と五別所に乱れ入り、堂舎仏閣に火をかけて、叫びながら攻め寄せる。猛火が東西から吹きかけ、敵が南北に充満したので、これはもうだめだと思ったのであろうか、三井寺の僧兵たちは、逃げたり、自害したりする。勝手を知っている三井寺の僧兵たちでさえそうなのだから、四国、西国からやってきた武士たちは煙に巻かれ、どうしてよいかわからない有様である。こうして、半日ばかりの合戦のうちに、大津、松本、三井寺で戦死した足利方の兵は7300人に及んだ。

 ある衆徒(三井寺の僧徒)は金堂の本尊である弥勒菩薩の首だけをとって藪の中に隠しおいていたのであるが、戦死者の首の中に、切り目に血のついた弥勒菩薩の像を見つけた比叡山の僧侶が、大きな札を立てて、狂歌を書き付け、さらに詞書を書き添えた。
 建武2年(3年が正しい)の春の頃、何かと世の中が騒がしく思われたので、早くも衆生済度のために三度の法会を行うときが来たのだろうか、それではこの世に下生して、仏となり、説法を行い衆生尾を救おうと思ってえ、三井寺の金堂の方に出かけたところ、地獄の罪人を焼く火が盛んに燃えて、修羅の闘争のような騒ぎが四方に聞こえ、これは何事であるかと、思案に暮れてうろうろしていたところ、三井寺の何かしとかいう僧侶が内に入ってきて、理由もなく、のこぎりで私の首を引き切ったので、「阿逸多(あいった=あ痛)」といったが既に遅かった。耐え難い悲しみのうちに、思いを書き付けた、 三会教主源弥勒菩薩
 山をわが敵といかで思ひけん寺法師にぞ首を取らるる (どうして今まで比叡山を自分の敵と思っていたのだろう。三井寺の法師に首をとられたことよ。)
 弥勒菩薩は釈迦の入滅から56億7千万年後にこの世に出現して、仏としての悟りを開き、衆生を救うとされる。阿逸多はこの菩薩の異称である。『太平記』の描く時代の少し前、鎌倉時代の末期に東大寺の戒壇院で仏教の研究と著述に専念した学僧・凝念の著作『八宗綱要』の最初の方に、仏教の経典には声聞(小乗)蔵と菩薩(大乗)蔵の二蔵があり、釈迦の入滅後、迦葉を中心とした仏弟子たちが釈迦在世中の教えをまとめたのが声聞蔵、阿逸多(弥勒菩薩)や文殊菩薩などが大乗にかかわる教法を集めたのが菩薩蔵であると書かれていて、弥勒菩薩は歴史上実在の人物であるかのような記述がなされている。今日の仏教の歴史についての研究から見ると、問題があるところだろうが、鎌倉時代の人はそう考えていたのである。

 比叡山の山法師の落首は、なかなかよくできているが、悪趣味に思えないでもない。細川定禅の率いる四国・中国地方の武士たちと、三井寺の僧兵の連合軍を打ち破り、三井寺を焼き払って大いに気勢が上がった宮方の今後の動きが気になるところであるが、『太平記』の作者は、引き続き、この戦乱で焼け落ちた三井寺の釣り鐘と、この釣り鐘の由来についての説話を物語る。俵藤太と呼ばれた藤原秀郷の登場する物語がどのようなものかは、次回にご披露する。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR