『太平記』(138)

12月24日(土)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するために、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺(園城寺)を味方につけた。第3代天台座主の円仁の門徒と、第5代天台座主の円珍の門徒とが対立した結果、円珍の弟子たちは比叡山を去って三井寺に移り、その後長く、比叡山同様に三井寺にも戒壇を造営することを求め続けてきたという経緯があった。比叡山と三井寺は対立を繰り返し、三井寺は7度も焼き払われた。そのため、三井寺は戒壇の造営を要求しなくなっていたが、かえって寺門は繁栄していたのであるが、尊氏が軽率な将軍の文書を下したので、三井寺に災いが降りかかることになるのではないかと非難する人々がいた。
 義貞の鎌倉討伐に呼応して奥羽から兵を進めていた北畠顕家が、近江の国に達し、琵琶湖を渡って比叡山の宮方に合流した。

 顕家の率いる東国の兵士たちが比叡山の東麓の坂本に到着したので、顕家、義貞、その他宮方のおもだった武将たちが、日吉山王の彼岸所(仏事を行う堂、この時代は神仏が混淆していた)に集まって作戦会議を開いた。長旅に疲れた兵馬を率いている顕家は、ここは一両日でも兵馬を休ませて、それから京都に攻め寄せるべきだと主張した。これに対して大館左馬助(氏明)という武士が、長旅で疲れ切っている馬を、1日でも休ませてしまうと、かえって緊張が解けて、4,5日は役に立たなくなってしまう。そのうえ、顕家の率いる軍勢が坂本に着いたとは、敵はまだ知らないし、また敵がたとえ知っていたとしても、すぐに攻め寄せてくるとはまさか思うまい。敵の不意を衝いてこそ、勝利が得られるのが習いである。今夜すぐさま、志賀(大津市滋賀里)、唐崎(大津市唐崎)あたりまでこっそりと押し寄せて、四方から鬨の声をあげて攻め入れば、必ずや味方の勝利となるだろうと意見を述べる。義貞も、楠正成もこの提案はもっともだと賛同し、他の大将たちにもその旨を伝える。

 新たに加わってきた千葉氏の軍勢が、この作戦を聞いて、夜明け前から千余騎で滋賀の里に陣をとる。大館左馬助、新田一族の額田、羽川の軍勢が、6000余騎で唐崎の浜に陣を取る。琵琶湖交通の要所である戸津、比叡辻、和仁、堅田を固めていた武士たちは、小舟700余艘に乗って、沖に浮かんで夜が明けるのを待つ。比叡山の僧兵たちは2万余人、たいていが徒歩の兵力であったので、東山の主峰如意が岳を越えて三井寺に行く道を進んで、搦め手に回った。大手の鬨の声が上がれば、同時に攻め寄せようと、息をひそめて待ち構える。

 坂本に多数の軍勢が到着した形勢が、船の盛んな往来から知られたので、三井寺の大将である細川定禅と高大和守(重茂=しげもち)の方から京都に使いが派遣されて、東国の軍勢が坂本に着いて、明日、攻撃してくるとの情報がある。速やかに加勢の軍勢を送ってほしいと3度まで申し入れがあった。 これに対して尊氏は、関東からそれほどの軍勢が上洛してくるわけがない。やってきた軍勢はほとんど宇都宮の紀氏清原氏の軍勢という話である。宇都宮の惣領である公綱はこちら側に着いたので、関東からの軍勢が間違って坂本に入っても、公綱が京都にいると知れば、やがて京都にやってくるだろうと、重大な事柄であると受け取ろうとせず、三井寺には一兵も送らなかった。(前回で取り上げたように、宇都宮勢500余騎は、近江まで顕家の軍に加わっていたが、琵琶湖を渡らずに京都に向かっていた。そちらの情報は尊氏の方に届かなかったのである。尊氏はかなりしっかりとした情報網を持ち、的確な判断をしてきた武将であるが、ここでは珍しく判断を誤っている。)

 そうこうしているうちに、すでに夜も明けはじめたので、北畠顕家の率いる2万余騎、新田義貞の3万余騎、新田一族の脇屋、堀口、額田、鳥山の1万5千余騎が志賀、唐崎の湖岸沿いに馬を進めて押し寄せる。後陣遅しと待ち受けている前陣の軍勢は、大津浦(大津市松本のあたり)の民家に火を付けて、鬨の声をあげる。(いつものことながら、自分の家を勝手に焼き払われる住人の立場に立ってみると、ひどい迷惑である。) 三井寺の側でもかねてから用意していたことなので、場所を選んで、防戦の矢をしきりに射かける。

 一番に下総の守護である千葉介貞胤が1,000余騎で押し寄せる。1か所か2か所の城柵を打ち破って、城中に斬って入り、三方にいる敵と1時間ばかり交戦する。しかし細川定禅の率いる四国の軍勢6万余騎に包囲されて、貞胤の子高胤はたちまち討たれてしまった。高胤の配下の兵300余騎は、主人の仇を討とうと必死で戦ったが、150騎ほどが戦死したために、退却し後陣と交代する。

 次に顕家が率いる2万余騎が、入れ代わり立ち代わり、攻め寄せ、兵馬が疲れてきたので、三番手の軍勢と国対する。二は前々回、大友貞截と刺し違えて壮烈な最期を遂げた結城親光の父、宗広が率いる、伊達、信夫(福島県伊達郡、信夫郡)の武士たち5千余騎が入れ替わって、わき目も降らず必死に戦う。この軍勢300騎うたれて退却したので、三井寺を守っていた足利方の軍勢は勝ちに乗じて、6万余騎を二手に分け、琵琶湖の湖岸へと打って出た。

 顕家が兵馬を休ませようといったのはごく自然な発想で、それに対して大館、義貞、正成がすぐに攻め寄せるべきだと主張したのは、何度も戦闘を経験した武士の意見であり、その意見に従って自分も兵を進めて戦った顕家の態度は称賛に値する。これに対して尊氏が珍しく判断ミスをしたのは、あとで尾を引くことになる。宮方の兵力は顕家の兵が加わっても、まだ足利方に比べて少ないが、士気が高く、名将ぞろいという強みがある。
 これまでの成り行きでは、関東の名門千葉氏が宮方に加わっているというのが注目される。{千葉(下総)介、三浦(相模)介というのは平家の流れをくむ東国の武士の二大名門である。下総は親王任国であるから、下総介というのは事実上の下総の長官であることも忘れてはいけない。} 京都にいたころ、自転車で山科まで出かけたことがあったし、友人が自動車の免許を取って車を買ったというので、大津までのドライブに付き合ったこともあるから、今回登場する地名には結構なじみがある。三井寺を守っていた三井寺、足利方の連合軍であるが、そのまま防備を固めていればいいものを、勝ちに乗じて飛び出してしまった。さて、どうなるか、続きは次回。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR