呉座勇一『応仁の乱』(3)

12月19日(月)晴れ

 この書物の特徴は、前回も触れたように、奈良の興福寺を代表する立場にあった経覚と尋尊という2人の高僧の日記を主な史料として、応仁の乱とそれ以前の畿内の社会の動きを、大和におもな焦点を当てながら描き出そうとしているところにある。大和の事実上の守護は藤原氏の氏寺である興福寺であったが、その内部では近衛・鷹司家から代々の門主を迎えていた一乗院と、九条・一条・二条家から門主を迎えていた大乗院との対立があり、このような対立・抗争の際の実働部隊である衆徒の力が次第に強くなった。また藤原氏の氏神を祀る春日神社の武力である国民も興福寺の衆徒たちとともに実力を蓄えていった。大和では親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立を軸に紛争が展開されるようになった。
 この書物の資料の1つである『経覚私要抄』(もともと「抄」と手偏で書くのではなくて、金偏の字が用いられているのだが、入力できない)を記した経覚は九条家の出身で応永17年(1410)に大乗院門主となり、同33年(1426)に興福寺別当の地位につくなど順調な前半生を送っていた。彼は幕府との良好な関係を利用して興福寺、さらには大和一円を支配しようとするが、国内の複雑な利害関係は彼の意図の妨げとなった。
 応永35年(1438)に将軍・足利義持が没し、その後継者としてくじ引きによって足利義宣⇒義教が選ばれた。経覚は幕府の権威を利用して大和国内の紛争を鎮めようとしてきたが、将軍義教ははじめのうち、大和への介入をためらっていたものの、いったん介入を始めると強硬論に転じる。筒井一族の衆徒・成身院光宣の暗躍もあり、大和における紛争に幕府の命を受けた畠山・赤松の軍勢が派遣される。戦火の拡大を苦々しく見つめていた経覚は義教から求められた幕府への上納金の納付を断ったために失脚することになる。彼の後任として一条兼良の9歳の男児が大乗院に入室するが、その男児がこの書物のもう1人の主人公、『大乗院寺社雑事記』の著者である尋尊である。

 嘉吉元年(1441)正月に幕府は関東で結城氏朝らの反乱軍の討伐に取り組むが、なかなか成功しなかったので、畠山持国に出兵を依頼する。しかし持国が承諾しなかったために義教の不興を買い、後難を恐れた家臣たちが幕府に持国の解任を申し出たので、幕府は持国を畠山の家督から外して彼の弟である持永を家督に据えた。持国は河内へと落ちていった。
 同年4月に結城城は陥落し、6月、その先勝祝いにことよせて義教を自邸に招いた赤松経康(のりやす)が義教を暗殺するという事件が起きた(嘉吉の変)。変後、管領の細川持之は諸大名を招集し、善後策を協議した。その結果、義教の長男である千也茶丸を後継とし(のちの足利義勝)、管領の持之が政務を代行することとなった。〔『太平記』の最後に記されているように、臨終の床にあった室町幕府の2代将軍足利義詮が阿波から上洛してきた細川頼之に後事を託し、頼之が管領として義詮の子で将軍職を継ぐ義満を助けることになったことが記されているという前例がある。〕

 その際に、義教によって追放ないし処罰された人々への赦免を行うことが決まった。その中に持国も含まれていたので、彼に代わって家督を継いでいた持永との対立が置き、最終的に持国が家督に復帰する。もともと大和に影響力を持っていた持国は幕府によって家督を奪われていた越智氏の蜂起を援助した。この動きに触発されたのか、経覚もまた越智以下の国民の助けを借りて、力ずくで大乗院の門主の地位に復帰した。これまで衆徒・国民の争いに際して、特定の勢力に加担せず、調停者的立場を崩さなかった経覚であったが、越智の力を借りたことで、親越智・反筒井の立場をとることになった。経覚が騒乱の渦中に飛び込んだことで、大和の政治情勢は新たな段階に進んだ。

 筒井氏の側でも内訌が起きたりするが、大和国内における主要な火種は細川持元の後を受けて管領に就任した畠山持国の援助を受けた反筒井勢力と成身院光宣を陰の指導者とする筒井氏との対立であった。持国が管領を退き、細川勝元と交代すると、幕府は奈良への介入に消極的になるので、筒井が優勢になり、尋尊が大乗院の門主に返り咲くことになる。しかし、これまでの門主と違って前任者から自分の仕事についての懇切な指導を受けることができず、そのために克明な日記をつけて、後代に残そうと考える。それが『大乗院寺社雑事記』である。

 一方、畠山氏は持国の後継者をめぐり、実子の義就(よしひろ)と持国の甥である弥三郎のどちらをめぐり内訌が起こり、弥三郎が(畠山氏の内訌を利用して自分たちの勢力を拡大しようとする)細川、山名という有力な大名の支持を得たことから、混乱は大きくなった。さらに兄・義勝の後を受けて将軍となった足利義政の無定見が加わり、事態は一層複雑なものとなる。義就に追われた弥三郎は大和に逃げ、成身院光宣を頼り、大和での戦闘が再発する。弥三郎は没するが、その後、光宣はその弟の政長を立てて戦いを続かることになる。「大和の混乱は、畠山氏内訌と結びつくことで、拡大の一途をたどった。」(64ページ)

 ここでは名前を出さなかったが、本文には山名持豊(宗全)も登場し、細川勝元、足利義政、畠山義就、政長と、応仁の乱の役者がそろい始めている。出来事の表面だけを見ていくと、一家の当主の座やその当主の占めている地位をめぐる争いのように思われるが、土地や財産をめぐる争いが絡んでいて、それに少なからぬ人間が関係するから事態は複雑になるのである。事態はこれらのことを含めて、応仁の乱の直前の動向を探ることになる。
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