パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』

12月18日(日)晴れ

 パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマーブックス)を読む。パオロさんは、このFC2ブログの学問・芸術・文化の部門の上位に顔を出している「パオロ・マッツァリーノの反社会学講座」の管理人であり、すでに新潮新書の『「昔はよかった」病』などの著書もある「日本文化研究者、戯作者」である。

 ここで問題にされているのは道徳一般ではなくて、日本の小学校、中学校における道徳の時間で何が教えられ、学ばれているか、さらにもう少し広い意味での道徳教育の問題である。現在の日本では道徳が乱れているので、道徳教育を強化する必要があり、だから道徳の時間を「道徳の時間」という領域ではなくて、教科にしようというのが文教政策の動きなのだが、それに対して異議を唱えている書物である。初めに言っておくが、著者の意見に大体において賛成である。

 冒頭、著者は「日本社会が悪くなったのは、戦後の民主主義的自由主義教育のせいで日本人の道徳心が低下・劣化したからだ!」(だから道徳教育を強化しなければならない)とここ60年ばかり続けて主張されてきたと指摘する。(生まれて60年たてば、人間は結婚して子どもができ、その子どもにまた子どもができているのがふつうである。世代が変われば、主張も変わるのが当たり前だとすると、日本の大人たちが60年間同じことを繰り返し主張しているのは、かなり不思議な事態である。) それに、道徳教育を強化することで、本当に道徳性が改善されるのであろうか。

 著者は、道徳が「特殊な科目」であるという。数学の先生は数学が得意な人がなって、数学が得意でない生徒が数学が得意になるように教える(実際には私のように得意にならない生徒も多い)。ところが道徳はそうではない。道徳の先生は道徳が得意だとは言えないのである(著者は、一般に学級担任が道徳の時間を担当するという学校の実際についてなぜか、触れていない)。さらにここ30年以上にわたり、学校教育の中にはびこり続けている「いじめ」と関連して、<いじめ防止に道徳を使うのはオトナのいいわけ>に過ぎないと断じる。著者の言うとおり、週1回道徳の授業をやっても、いじめがなくならないのは教える方も教えられる方もわかっている。言い訳に過ぎないというのもそのとおりである。問題解決に取り組まずに、体裁だけを取り繕うとするのはズルい。
 
 さらに著者は「ズルい人ほど道徳を利用する」といって、道徳教育を推進するといいながら、アメリカの企業から巨額のわいろをもらっていた政治家や、「心の教育」を推進するといいながら企業からわいろをもらっていた官僚の例を挙げる。実際、彼らが道徳教育を推進していたことを引き合いに出して、彼らは本当はいい人なのだから攻撃すべきではないといっていた人もいたのである。いまの道徳教育よりも優れた内容をもっていたはずの戦前の修身教育を受けていた政治家や官僚がこのようにわいろをもらうという行為をしたのは、わいろを受け取ってもそれが発覚しない事例の方が多いからであると著者はいう。実際、各種の疑獄事件の際に街の声を聞くと、運が悪かっただけだという感想を述べる人が少なくなかった。(しかし、道徳よりも実利を優先させるような人が道徳教育の強化を主張しても、あまり効果はないはずである。)

 道徳は、すでに正解が決まっている善悪の基準を子どもたちに押し付けて、基準をぶれさせないよう維持することを目的としていて、子どもたちに「なぜ?」と問いかける余地を与えないことで成り立っていると著者はいう。しかし、そのことによって道徳は社会の変化に対応しない、単なるガラクタになっていると著者は主張するのである。

 ということで、実際に学校ではどのような道徳が教えられているのか、著者は道徳の「副読本」の内容の点検に取り組む。ただ、その中にどのような内容が盛り込まれ、そこから著作者側のどのような意図が読み取れるかということで終わっていて、道徳の授業の実態にまでは入り込んでいない(そこまでをこの著者に求めるのは無理かもしれない。この点では別の論者による検討を望みたいものである。) さらに戦前の修身書から戦後、道徳の時間が特設されて以後の副読本の内容についても目を通している。矛盾した話、歴史や科学の事実と異なるでたらめな話、意味不明な話がある一方で、大いに考えさせられる優れた話も含まれているという(しかし、大半は、くだらない話でも、優れた話でもなく、どうでもいい話が多いようである)。
 検討を加えたうえで、著者は現行の道徳「副読本」の問題点として、そこで取り上げられている家族像が理想に偏っていること、かなりの頻度で樹木信仰が取り上げられていること、歴史と科学が無視されていること、自己犠牲が称賛されていることを列挙している。この点については、他の論者によるさらなる検討が必要であろう。(家族像が実際の家族の姿を反映していないのは、修身教育でも同様であった。)

 さらに、「オトナが勉強をしなくなる仕組み」が道徳をゆがめていると著者は論じる。「勉強とは自分の中の経験と常識をぶち壊す行為」(147ページ)であるから、大人になればなるほど、そんなことはしたくなるのはある意味で当然である。著者は、「社会や人間について考察する際は、道徳心はいったん脇に置き、まずは多くの事例を「勉強」するところからはじめなければいけません。われわれは、過去の社会や過去の人間について、あまりにも無知です。経験で常識だと思ってることも、実は多くの事実の中のひとつの例にすぎなかったりします。謙虚になって勉強し、学んだ事実をもとに科学的に考えてください」(158ページ)と読者に呼び掛けている

 最後に「いのちの大切さのしくみ」について論じているが、この部分は著者の本音がよく出ていて感動的で、ぜひご自分でお読みください(著者同様、私も戦争と死刑の両方に反対である)。「殺人のおもな理由は憎しみなのだから、殺人を減らしたいのなら、いかに他人を憎まないようにするかを教えるのが最も効果的です。/ゆえに道徳の授業で教えるべきは、いのちの大切さではなく、多様性の尊重です」(171ページ)という主張には賛成である。他者の理解が重要であることを強調してこの書物は終わっている。

 汚れた雑巾でテーブルを拭いてもテーブルはきれいにならないというたとえを持ち出したのはトルストイだったと思うが、道徳教育は雑巾のようなものかもしれず、その雑巾の状態にもっと目を向けるべきなのである。この書物だけにとどまらず、もっと他の著者によっても、道徳教育の実態に迫る、実証的な著作が刊行されることを望むものである。
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