呉座勇一『応仁の乱』(2)

12月10日(土)晴れ

 この書物の特徴は、奈良の興福寺の高僧であった経覚と尋尊の日記を通じて、同時代人である彼らの目に映じた応仁の乱の実態を探ろうとしていることである。「経覚も尋尊も奈良で生活しており、彼らが入手する京都や地方に関する情報の中には不正確なものや噂、デマの類が少なくない。したがって、応仁の乱の全体的な構図や経過をつかむうえでは最適の資料とは言えない。しかし、経覚・尋尊という記主本人のみならず、彼らの周辺の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかが分かるという点で、2人の日記は他のどんな史料にも代えがたい価値を有する」(ⅶページ)と著者はいう。特定の理論や「史観」を前提とせずに、史料を忠実に読み込むことによって「人々の生活の在り方という具体的なレベル」(ⅷページ)での戦乱の姿を見ていこうとしている。
 第1章「畿内の火薬庫、大和」では大和の国(さらには日本国)内で興福寺が占めていた位置が概観される。藤原氏の氏寺である興福寺が摂関家との強い結びつきから、院政や平氏政権と対立し、鎌倉幕府成立後も大和には守護が置かれず、興福寺が事実上の守護として大和の中心部を支配していた。しかし、摂関家が近衛家と九条家、さらにいわゆる五摂家に分裂したことにより、近衛家(と鷹司家)は一乗院に、九条家(と一条家・二条家)は大乗院にという興福寺の中の院家の棲み分けが成立することになった。一乗院と大乗院は門跡であり、その莫大な財産をめぐって抗争が続き、その結果として実働部隊である衆徒が台頭してきた。彼らは春日社の神人である国民とともに武士としての実力を蓄えていった。
 南北朝時代に興福寺は武家方の立場をとったが、大和の中でも吉野に近い南部の武士たちは南朝方だった。南朝方で最も有力な武士であったのが越智氏であり、幕府方として有名だったのが筒井氏である。室町幕府の時代になると、親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と反幕府的な大乗院方国民の越智との対立が大和の国における紛争の軸となっていった。〔筒井氏はのちに戦国大名になっていく。〕

 今回は第1章の残りの部分、この書物の主な史料の記主である経覚の動向を記した個所の紹介から始める。経覚は応永2年(1395)に関白左大臣九条経教(つねのり)の子として生まれ、応永14年に出家して、大乗院門主だった兄の孝円の弟子となった。応永17年には兄の孝円が亡くなったために、大乗院門跡を継ぎ、応永33年には32歳で興福寺別当の地位についた。〔以前にも書いたが、日本の年号で一番長く続いたのは昭和、次が明治で、応永は3位、4位が平成ということである。〕 彼が順調に昇進したのは名門の出身だったからである。

 経覚は幕府との良好な関係を利用して、九条家出身者から自分の後継者の候補を確保しただけでなく、大和支配を目指していく。応永35年(1428)に将軍義持が没し、くじ引きでその弟の義宣(のちに義教)が将軍に就任し、同じ年に称光天皇が亡くなられて御花園天皇が即位された。明徳3年(1392)にいわゆる南北朝の合体(明徳の和約)が行われた際に、皇位の両統迭立という条件が提示されていたのだが、もともと実現が無理な条件であり、皇位継承の望みが薄くなった南朝の後胤である小倉宮が伊勢の北畠満雅のもとに走り、大和の武士たちに呼応する動きが出た。(後花園天皇が即位されたので、年号が応永から正長に代わった。)

 正長元年(1428、応永35年7月に改元された)には京都郊外で土一揆が発生し、畿内近国全域に波及した。奈良もこの動きに巻き込まれる。北畠満雅は敗死するが、大和の一部の武士たちの反抗は続く。そのため、経覚は幕府の支援を引き出そうとして、何度も助力を要請する。正長2年に幕府から使者が下ると、経覚の支配下の大乗院だけでなく、一乗院や多武峰(現在は談山神社になっているが、この時代は寺であった)も出陣した。討伐は一応成功し、義宣は元服して、征夷大将軍の宣下を受け、名を義教と改めた。経覚と一乗院の昭円も将軍に拝謁して祝辞を述べている。

 一応の平和は得られたものの大和の武士たちの間の紛争は絶えなかった。経覚は幕府の権威を利用して紛争を止めるという方針をもっていたが、幕府軍の進駐は望んでいなかった。一方当時の大名たちは自分に利害関係がない紛争にはかかわりたくなく、幕府からの出兵の要請にも進んで応じることは少なかった。将軍義教は世間の評判を気にする性格で、幕府の介入によっても事態が収拾しないことを恐れて、なかなか決断に踏み切らなかった。その一方で彼はいったん関与し始めると自身の命令に逆らうものが許せないために強硬路線を突っ走ろうとする。〔どうも困った人物で、その困った性格が、やがてとんでもない事態を招く…〕

 永享3年(1431)の半ばには幕府は落ち着きを取り戻したのだが、8月に大和の有力武士である筒井が敵対する武士を攻める。この紛争はいったん収まったが、その後も再燃し、幕府の介入が本格化する。このために興福寺は紛争の当事者から傍観者の一に追いやられる。
 永享9年(1437)に後花園天皇は将軍御所を訪問され、義教の歓待を受けた。その際の費用の一部を義教は先例に倣って摂関家や諸門跡から徴収しようとしたが、経覚は支払いを断り、義教の不興を買う。おそらくは義教の意向を汲んで、大乗院の門徒たちから経覚の悪行(著者も書いている通り、そんなに悪いことはしていない)への不満が訴えられ、経覚は興福寺から追放され、生駒山のふもとの宝寿寺に隠居することになる。彼の後任の大乗院門主として、幕府は一条兼良(1402-81、関白太政大臣になるなど廷臣として活躍しただけでなく、学者としても知られる)の9歳になる子どもを選んだ。2年後に出家して尋尊と名乗る、この書物のもう1人の主人公である。

 どうも調子が悪くて、今回は第1章の残りの部分を紹介することしかできなかった。いったんは興福寺から去った経覚であるが、嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の変で彼の運命は転回を見せる。なんだか室町時代の歴史を大和の国を中心に概観するような感じになってきた。武士同士の対立や小競り合いよりも、文化的な話題の方が私の性に合うのだが、あいにくとこの本はそういう話題には乏しいので、苦戦中である。将軍である足利義教については今谷明さんが本を書いているし、この時代に幕府の政治顧問として活躍した三宝院満済(この書物の中にも登場するのだが、その部分は省略した)についても伝記的な著作がある。そういった書物を改めて読み直して、何とか体勢を立て直そうと思っているところである。 
 
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